長い間、美味しいパンといえばフランスのパンだった。住んでいたパリの五階の部屋から通りに出て、十メートル先の角を曲がり二件目のところにパン屋があった。螺旋階段の乗降を含めて約七分。薬缶の底にびっしりこびりついてしまう石灰のせいで味が締まるのだと言われたネスカフェと買いたてのバゲットが朝食だった。秋冬には窓の外で冷やしているバターを塗った。その繰り返しに飽きることはなかった。
それから数十年を経た六年前、ベルリンから半日の列車の旅に出た日、駅のキオスクで在住の友人が昼食用にパンを買ってくれた。「ドイツのパンって、こんなに美味しいんですか」と驚く私に、彼女は「知りませんでした? 負けていないでしょ」と笑った。帰りには車内用に、バンベルクの街角のスーパーでボトルワインとソーセージ、そしてパンを買い込んだ。三点セットはどれも申し分なく、その一日で仏独のパンは私の中で並び立ったのだ。
学芸大学駅周辺にはパン屋が多い。最近では「高級」を名乗る食パンの店まで増えているけれど、ドイツパンの専門店はまだない。
ところで私たちは、気に入った写真を未だに紙焼きにしている。ある日、DPE屋の女主人が尋ねた。「パンはいつもどこで買っているの」と。子育て時の大量購入以来、我が家のパンの優先順位は価格であり、味のこだわりも原材料へのチエックもおろそかだった。
「クロワッサンはね、そこの路地の店が一番。それから、ちょっと離れているけれど大岡山にドイツパンの専門店があるの。私はたまに自転車で買いにいくけれど、わざわざの甲斐がある味よ」という学芸大駅原住の方のご意見に従ってみることにした。大岡山は私たちの自宅からは徒歩で三十分ほどなので、散歩をかねての探訪に。目当てのドイツパンの店「ショーマッカー」は大岡山駅から放射状に延びる数本の商店街の一つにある。店舗の軒に掛けられたプレッツェルを模った鉄製の看板は美味しそうで、つい手を伸ばして摘まんでみたくなる。棚は正面の窓と片側だけで品数が多くないのは、おかずパンや菓子パンの類を置いていないためだろう。
初日はドイツ産ライ麦五十パーセント、国産小麦五十パーセントの表示があるベルリーナラントと、イチジク、クランベリー、クルミを練りこんだライ麦パンのオプストを選んだ。
ドイツのライ麦パンは見かけ通り持ち重りがする。目が詰まっているので噛み応えがあり、噛むほどに香りが立つ。塗るのではなく食べるというドイツスタイルで、たっぷりのバターを載せるのもよい。そしてさらにビールにも合う。このひと噛みで、散歩コースがひとつ増えた。
自宅からショーマッカーへの道にはいくつか桜並木があるので、花と落ち葉の季節はとりわけ楽しい。目黒通りを越えてすぐの田向公園からの歩道と、碑さくら通りと名付けられたバス通り沿いだ。そして何より、大岡山駅前から広がる東京工業大学の桜は見応えがある。ショーマッカーでプレッツェルを一口大に砕いてガーリックをまぶして焼き上げたツヴィーバックを求め、缶ビールを仕入れての花見が贅沢。
専攻が農獣医学部だった店主の清水信孝さんは食品関連、とりわけパンに惹かれていたのだという。学生時代のアルバイトはもっぱらパン屋だったし、卒業後の就職先もドイツ菓子「ユー・ハイム」である。ドイツ系を謳うお菓子とパンの店にいたとき、来店するドイツの人たちがあまりパンを買っていかないのに気づいた。彼らが故郷を懐かしむ味ではないのだろう。本場の味は現地で身につける他はないという強い思いに磁力が働く。ドイツでパン職人として清水さんを受け入れてくれたのは、マイスターの称号をもつショーマッカーの二代目だった。北西部を中心に数店舗の直営店と高級スーパーの棚にも入るパン工場で働けることになったのだ。十数名で日に五千個程を焼くという力技だから、「食」用の美というべきか。異国人でもなく見習いでもない一人の職人として働き、製造マシンのようにひたすらパンをつくり続けたことこそが、かけがえのない経験となった。水と粉の量、力の加減、温度の読み取りなどは教えることも学ぶこともできないからだ。
「五百日の修了書はこの手の裡にありますよ」、清水さんは誇らしげに大きな掌を開いた。
清水さんは、ドイツのパン工場での一年半の修業を終え、二〇〇六年、「ショーマッカー」からのれんを分けられた。ドイツの店名ロゴに冠された「ビオ(BIO)・ベッカライ」とは有機のパン屋という意味だという。「ドイツパン以外はつくらない、牛乳、卵、砂糖を使用しない、ドイツへ行く際、焼いたパンを持参して本店のチエックを受ける」ビオを目指す東京店の誕生である。
大岡山に店舗をもったのは、母親の実家が近くだったし、自分も学生時代に住んでいたので、土地の雰囲気には親近感があったからだ。ドイツシューレのスクールバスが通るくらいドイツ人も多い。ドイツ大使館やドイツ料理店が顧客になったのも早かった。
亀戸から買いに来たという男性が話してくれた。十歳の頃、父親の仕事で二年程ドイツに暮らしていたので、ずっと彼の地の味が恋しかった。数年前、はじめて訪れた大岡山で「ベッカライ」の名を発見し、以来熱烈なファンとなったそうである。
パン屋にとって地の利以上に肝心なのがパン種、清水さんが使う酵母はドイツから持ち帰ったサワー種である。温度管理が難しく、繊細で気難しい酵母とは目と鼻で対話する。一日三回の種継ぎも欠かせないルーティンだ。パン屋の朝は早く四時頃から作業をはじめ、五十キロ近くの麦を捏ね、十時くらいまで焼き続ける。二十五種類程のパンを三百個、週末には四百個ほどになる。レジの背後にある工房は決して広くはない。オーブンは大型だが、作業台はコックピットと云えるほど小ぶりで、半身を捻じるだけで手順を進められる。捏ねて成型して焼き上げる一連の動きは見飽きることがない。オーブンから焼きあがったパンのバットが取り出され、どっと台に広げられると、熱気と香りが強く立ち昇る。珈琲店や花店や茶舗等の香りは気分を豊かにしてくれるが、中でも焼き立てのパンの匂いは格別だ。
売切れごめんで、店じまいは商店街の中でも早いほうだ。清水さんは取りおいてあったパンをリュックに詰め、店のトレードマークでもあるオレンジ色の自転車に跨る。明日の朝も早い。
その店のドイツ・ソーセージをはじめて口にしたのは、知人が持ってきてくれた三種類だった。元よりソーセージは好物なので、時たま駒沢通りや目黒通り沿いにある手づくりの店で求めていた。これは別物だぞと唸った私たちは、日ならずして教えてもらった場所を目指した。これまでの店よりは遠いけれど、駒沢公園を突切ってから玉川通りを渡り、桜新町駅に近い通りである。家から四・二キロ、徒歩で約一時間の「きんりん」圏だ。店名の「ファインシュメッカー」はドイツ語で食いしん坊という意味だそうだ、いいな。
行きかう車群の唸りが途切れることのない玉川通りから通称旧道に入ると、様相が一変する。道幅に比して交通量が少ないので、こちらの歩みもゆったりと変わり、周りがよく見えてくるからかもしれない。通り沿いに立ち並ぶ生活用品の店や飲食店はどこも同じように間口が狭い。ファインシュメッカーの間口もまた狭かった。そして、店舗としての強いアピールはなく、軒にドイツ国旗が掛かっているだけだ。元より国旗の色合いは地味だ。
ドアの真ん前にあるガラスケースの商品は多くはない。一人での手づくりなのだ、商品アイテムは無暗に増やせないのだろうし、必要もないのだろう。私たちは、「焙って食すチューリンガー」「茹でて食すブルスト」そしてポテト入りの「ザウマーゲン」を選んだ。すぐに口にしたいと思えば、店内にはカウンター数席と丸テーブルが二つあって、何とソーセージプレートとビールを前にしている方々がいる。会釈する口元がとても幸せそうで、再訪が決まった。ランチタイムもあるという。私たちは原則昼食を摂らないけれど、いつも応変であって、南南西に旨いものあれば、さっさとランチをいただくことにしている。二人とも大食ではないものの食いしん坊なのだ。
二週間後、カウンター席でランチを注文し、棚に並んだ数種類のビール瓶の中からピルスナーのイエヴァーという銘柄を選んで告げると、ショーケース前にいたドイツ人らしき男性がグッドチョイスというふうに親指を立ててにっこりする。一口飲んで、知っている数少ないドイツ語で「すごくおいしい」と言うと、男性もまた、いかにも数少ない日本語の中からのように「カンパイ」と答えて破顔したのだった。住まいは近所なのだろう、自転車の後ろにお嬢さんを乗せて帰っていった。毎週買いに来るのだという。
「今の人もそうでしたが、ドイツの方たちはサラミやスライスハムを買っていく率が高いんです。酸っぱい黒パンとサラミは相性がいいですよ」と店主がいう。ドイツ人はジャガイモとソーセージとは勝手な思い込みらしい。私が最初に覚え今でも忘れていないドイツ単語は「ジャガイモ」だけれど。
ランチはワンプレートとはいえ、ボリューム豊かだ。二本のソーセージと軽く焙ったポテト入りハム、細切りのサラミを添えたザワークラウト、そしてミニカップのスープにパン。食後にコーヒーが出る。
路地に面した窓側にはヤマブドウが這わせてあるので、葉の旺盛な季節だと、桜新町に座っていることを忘れるだろう。
シェフ齋藤氏は二十歳で調理師専門学校を卒業してビール会社に入ると、その七月にドイツに渡りデュッセルドルフに勤務した。そして約五年間の滞独生活である。現在の店から推して、ひたすらハム・ソーセージづくりの修業だったのかと思ったが、そうではなく、和風居酒屋やステーキハウスの接客から店舗の運営に至るまで幅広く関わり、スパイスを扱う会社に移っている。指折りのビールメーカーをあっさり退職してしまったことに父は激怒した。幸いというべきか、当時は国際電話をかけるのは簡単ではなく、電話局で申し込み日本につないでもらうのだ。おまけにかなり高額なので、電話代を理由に一方的に切ってしまった。スカイプのある今だったら納得してもらうのは難しかったに違いない。父には申し訳なかったですよ、と齋藤さんは少し遠い目をした。
帰国後、イタリアンレストラン等を経て、ハンス・ホールベック社に入社している。ドイツ食肉マイスターの資格をもつ小島豊氏が経営するスパイスの輸入販売とドイツ・ソーセージの店である。氏はフランクフルト食肉学校を終了後、ノインキルヒェンにあるハンス・ホールベック店で店主ハンス氏に代わって製造を担当した経験をもつ第一人者だった。
小島氏の社の採用試験で、斎藤さんの履歴書から日本人が四人しかいなかったザールランドにいたのを知って、「この町にいたのなら、真面目に仕事をしていたな」とその場で入社が決まったという。この店で齋藤さんは、小島氏の来歴を辿るように、スパイスとソーセージづくりの知識と技を深め、店長と製造責任者となったのである。ハム・ソーセージの素材の旨味を目覚めさせ立ち上がらせるのがスパイスの使い方だという。小島氏の会社がスパイスと製造の二つを擁している故である。
ベーコンの仕込みを見せていただいたときも、ブロック肉に塩と数種のスパイスを入念に擦り込み、マリネ用のバットに入れて冷蔵庫に移していた。油の旨味が滴るベーコンエッグが目に浮かぶ。スーパー等で売られるベーコンが強さに欠けるのは、肉に混ぜ物をしてしまうからだという。脂身を敬遠する消費性向もあるようだが。
二〇一二年に独立してファインシュメッカーをはじめた斎藤さんは「用賀と駒沢の地元の方たちが来てくれれば、それで良し」と思っていたと言われた。この言葉は謙虚さというよりも、地域で受け入れられた味は外輪へと広がっていくものだという自負であったろう。先に述べた知人は駒沢公園近くに住まわれており、その後私たちの処で、ファインシュメッカーのハム、ソーセージを食べた三人の方が、自分たちも桜新町まで買いに行っているのだから、「舌コミ」の力は揺るぎない。
二カ月に一度がわたしたちのドイツの日。ショーマッカーでライ麦パンを求め、ファインシュメッカーでサラミとベーコンを。二か所を一度に回ると、全行程十二キロを超えるので、疲れも空腹も極まるけれど、気持ちは期待で膨らんでいる。冷蔵庫にはザワークラウトとリースリングワイン。家事にまったく疎かったわたしが、初めて本を頼りに料理といえるものをつくったのは、ドイツ風酢キャベツなるものだった。以来つくり続けているけれど、シンプルなものは奥深い。
街の小さなエリアでありながら、狭く閉じることなく自分ひとりの手になるものを日々生み出されるお二人の職人に感謝と敬意の杯を。そしてわたしたちは遠い西の国に住む二人にも杯をかざす。“Prost!”
制作 :エクリ
ロゴ :伊藤弘二
写真 :大野貴之
レイアウト:須山悠里
文責 :須山実・須山佐喜世(エクリ)
ショーマッカー
大田区北千束1-59-10
定休日:月曜日
営業時間:AM9:00~PM6:00
ファインシュメッカー齋藤
世田谷区新町2-10-13
定休日:火曜日・水曜日
営業時間:AM11:00~PM7:00