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きんりんバックナンバー

林さん一家とエレナ

学芸大学 きんりん vol.8

林一家とエレナ・トゥタッチコワ

近隣の国はと問われたとき、まず挙げられるのは台湾、韓国、中国、そしてロシアあたりだろうか。三万年以上前に日本列島へ漕ぎ渡ってきたとされる三つのルートが、朝鮮半島と台湾、サハリンの人々だったのだから、それらの国々はたしかに「近い」といえるだろう。しかし北海道に住んでいる方と九州では感じ方が違ってくるかもしれない。

子育て時代、私たちの住まいは目黒区にある碑文谷公園の東側だった。東横線の高架を隔てているだけなので、公園は地続きの庭である。この碑文谷公園に接する近隣に住む近隣の国の知り合いができたのは、家人がいつものように長男と砂場遊びをしていた日のことだ。

閑散とした公園の砂場で、十ヶ月の息子と砂山をつくっていると、隣に同じくらいの幼児と母親が砂を掘っている。しばらくして、どちらともなく、眼差しで「いくつ?」ママは、右手の人差し指を一本立て、それから両手の指を全開に。あ、一歳と十ヶ月、我が子の一歳お兄さんだ、と頷きあいながらの初コミュニケーションであった。言葉が通じないなか、ソウルからきて間もないこともわかった。この手ぶりと単語を連ねてはじまった半島からの家族、林光日さんたちとの付き合いが数十年を経て今に至っている。

お互いに兄弟が増え、それぞれの幼稚園の友達も交えて家を行き来し、腕白な子らを追いかけ回すわたしたちは、毎日が祝祭のようだった。親も子も賑やかな親密さに満たされていた。

光日さんにチャプチエを教わった。十種類くらいの食材ひとつひとつに、調味料も炒め方も変える。そして大ボールで、熱々の次々出来上がる材料を丁寧に順番に手で混ぜて行く。お母さんの手、「オンマの手」というそうだ。子らの大騒ぎを聞きながら、軽々と楽しそうにこなす韓国の友人。それぞれの材料の特性を生かして絶品に仕上げるこの料理法、それは彼女の、人との、子らとの関わりかたそのものと見惚れたことがある。

林一家

友達の少ない異国の人に、わたしたちの両親もいつもウエルカムで、栗拾いやピクニックに車で連れて行ってくれたり、一緒に韓国料理や和食を囲んだ日々、言葉の壁は無縁であった。耳を傾けるというより、包み込む気持ちを注いでいたような気がする。

長幼の序が今でも根強くあるといわれる韓国だが、光日さんのわたしの父への挨拶など直角と見えるほどで、父の方が恐縮の態だった。

彼らが帰国してからは、電話や手紙で出来事を知らせ合ったが、電話のはじめの一言はいつも「おじーいさん、おばーあさん、お元気ですか?」と、年寄りを気遣う言葉だった。

その頃私は週に何夜か、碑文谷公園の池の周りをジョギングしていた。幼子を寝かしつけてから束の間の二人歩きをしていたのだろう、公園を散歩する林夫妻とすれ違うことがあった。池の周囲は五百メートルくらいだから、池を巡る二人と二度三度と行き交ったりもした。すれ違いざま「がんばってますね」と声をかけてくれた。睦まじい男女の立ち姿はいいものだなと思い、ランナーズハイとは別の爽快さと受容の温かさに包まれるのだった。

彼らの帰国後ほどなく、私たち一家はソウルの林さんの家に招待された。長男が六歳、次男が三歳で、三男が生まれる前の年の夏だった。ソウルでは彼らの家に宿泊し、慶州へ両家族で一泊旅行をした。彼の地のガイドさんが何度か「ヒデヨシが」と説明したのだった。

空港で白磁の皿と碗を四個ずつのセットと青磁の夫婦茶碗を持たせてくれた。今も毎日のように大事に使っている。

家人とソウルを再訪したのはそれから約二十五年後で、今度は真冬だった。光日さんがエクリで刊行した『空と樹と』の長田弘さんの詩を気に入って、市内の書店での取り扱いを交渉してくれたのだった。出発前の新聞に長田弘さんが韓国のカササギの巣について書かれていて、空港からのオートルート沿いの樹上で見ることができた。林さんの新しい住居の前庭では、架け橋をつくると云われるこの鳥たちを目の当たりにした。

そして、このうえない計らいがあった。その光景は色褪せないショートムービーとなって現われる。ソウルのデパートの回廊を先に立って歩く光日さんが携帯を手に話している。とてもにこやかに。

そして、いきなり姿を見せた青年を前に家人の目は見る見るうちに潤んだ。「ハンベちゃん」。

二十数年を経ても幼少の原型は瞭然だ。はらはらと涙をこぼす家人の肩を光日さんが満足げに抱き、長じたきかん坊の傍らで可愛らしい奥さんが控え目に微笑んでいる。三人の女たちの見飽きない画像。

前述したように、家人の韓国の人との最初の出会いには共通語がなかった。しかし覚束ないながら揺れ動く細い橋はかかっていたのだ。その橋は言葉で拵えられたものではなかった。その橋は開きあおうという双方の思い。この一対は幻想ではない。それは絶えざる出会いで、私たちは与えられた時間のなかで、心をつくして無数の対を結んでいく。

林一家

エレナ・トゥタッチコワさんのことを初めて耳にしたのは二〇一二年のことだ。私たちが刊行したアンドレイ・タルコフスキー監督の父、アルセーニイの詩集に添える写真は鈴木理策さんに撮影していただいた。この詩集『白い、白い日』の刊行記念写真展で、理策さんが教える東京藝術大学大学院に在籍するロシア人の話になったのだ。その時はまだ、タルコフスキーの映画が好きなロシアからの学生がいるという話だけで名前までは聞いていない。

エレナさんと実際に会うのは彼女の写真集『林檎が木から落ちるとき、音が生まれる』の出版に合わせ、造本を担当した須山悠里のギャラリースペースで展示が行われたときになる。

短い言葉を交わしただけでも、日本語が頗る達者なのがわかった。こちらの気持も寛がせ開かせるあけっぴろげな笑顔の人である。二週間程後、写真集刊行記念のトークを聞きにいった。トークにはパク・キョンミさん、乙益由美子さん、須永紀子さんという三人の詩人が予定されていた。写真集に載せられた日本語と英語の文がすぐれて詩文であるとはいえ、どうして詩人たちなのかと思った。写真家、映像作家として知ったエレナさんが詩を書く人、日本語で詩を書く人だと後に聞いた。肩書き、職業を通すと、往々にして人を狭い枠に閉じ込めてしまう。「わたしは」とエレナは即座に答えた、「表現者です」。

エレナの話しぶりに私は息を詰め聴き入っていた。異国人が流暢に日本語を操るから驚いたのではない。話されること、まさに存在と時間のあわいに触れる論旨の展開を必死に辿っていた。

記念トークから約一年後、山梨県の長坂にあるギャラリー・トラックスでの写真の個展“On Teto’s Trail”を見に行った。Tetoはギャラリーに飼われていた犬の名である。エレナがこのTetoと共にギャラリー周囲を歩くというウォーキングツアーも催されていた。個展終了前日の駆け込みだったので参加できなかった私たちも、Tetoを連れ甲斐駒や八ヶ岳の雄姿を眺めながら、ギャラリー周りの遊歩を追体験させてもらった。「歩行・思考・想像力」という東京芸大の博士論考に結実していく「歩く」をテーマにしたワークショップのはじまりで、エレナにとっての歩くことの意味の先端に、私たちも触れたように思う。歩くことは考えること、考えるために歩くのではない。歩行がおのずから思考の道を開くのだ。移動の間すべての感官は高速で明滅し、道は過去と未来が衝突する磁場となるのだろう。

二〇一八年十二月、天王洲でのグループ展「大切な誰かを思う写真と手紙の企画(Thinking of you send a message)」展には、狛江市の野川緑道周辺で撮影された写真、映像とともに「緑道」と題された詩が寄せられていた。その冒頭を引用する。

「いち にい さん/道はこう進むのだ/ただの道ではない/川を想って、いま進むのだ/幅はちょうど/いち にい さん/数えるほどある」

「想って進む」、エレナの歩き方はこの言葉に宿っているにちがいない。生まれ出た言葉によって、さらに深く遠い世界を拓く詩語の力。「想って進む」、それは道の記憶の再現ではなく、いつもはじめて現われる道の蒐集なのだ。

詩を書くとき、エレナはいきなり日本語でという。母語のロシア語で考え置き換えるわけではないのだ。「人は国に住むのではない。言語に住むのだ。祖国とはそれ以外の何物でもない」(『告白と呪詛』)というシオランの言葉を思い出す。

谷中に下宿し、狛江に居を移し、雪氷の知床で冬を越し、二〇一九年春から京都に引っ越したエレナは日本語に住んでいる。

エレナ・トゥタッチコワ

エレナは日本語というより、日本の文字に興味をもったのだという。六歳の頃である。エレナのご両親はともに理系の大学教授だったが、父親が異国の言語に広く関心をもつ人で、書棚には多言語の書籍が並んでいた。その中に日本語の本もあり、ロシアのキリル文字やアルファベットとはまったく異質の記号に彼女は惹かれ描き写すようになった。やはり文字に誘われるのだな、家人も祖父の机を埋めていた各国語の辞書の中のキリル文字に呼ばれてロシア語を始めたと言っている。

見慣れぬ文字は謎に充ち、ときに奇怪でさえある。私ははじめてのソウルで街路表示や地下鉄の駅案内のハングル文字の奔流で眩暈に襲われてしまった。私は文字よりも音に魅せられる。ロシア語の豊かな響きは高校生のときに見たソ連映画「ハムレット」でのインノケンティ・スモクトーノフスキーの台詞であり、ハングル語の諧調はパク・キョンミさんの詩の朗読から染み入ってきた。異国語の音の美しさに触れたとき、祝福を受けたように感じた、と書いている人もいた。

エレナは外国語専攻にまっすぐ向かっていったのではなかった。高校生まで通っていたのはピアニストを目指す音楽専門で、ショパンよりもリストを愛する少女だった。そして二十歳になり、大きく舵を切り替えて日本語を学び出した。非漢字文化圏の人にとって漢字の読み書きはさぞハードルが高かろうと想像してしまうが、エレナはむしろ楽しかった、という。六歳の文字との出会いは伏流水となり、時を経て湧出したのだ。

わたしも同じだ。大学で専攻したロシア語学科の授業は厳しかったけれど、試験前やレポート提出を除けば異言語への道をゆくのは心弾んだ。卒業後の仕事を通じて、近隣ロシアの友を得た。

ロシア美術の殿堂、モスクワのトレチャコフギャラリーの中世美術研究者ガーリャ。訪ロのたびに会う深く長いおつきあいの彼女との出会いは、イコンの展覧会来日時のアテンド。

以来、わたしの質問や情報探索に対して、常に的確に想像力満載のアドバイスや多くの有益な資料を提供してくれることになる。来日中のホテルで、ガーリャ一人になってしまう正月に、着物で浅草を案内したときの若き二人の写真、仕事を離れたプライベートな時間がそれからの日々のはじまり。

美術館横の小さな職員用入り口から、ふわーっと魔法で大きくなったかのように緑色のワンピースで現れて、サキ−ヨさん!と「キ」を音程四度くらい上げて呼びかけてくれる姿が懐かしい。いつも大きな花束を贈られるような気持ちになる。

そしてもう一人大切な人は、マリーナさん。タルコフスキー父子それぞれの本の刊行の折、心を尽くしてくださったのが、父アルセーニーの娘であり、息子アンドレイの妹であるマリーナ・タルコフスカヤさんだ。映画監督の夫とともに編集者として生き、現在はモスクワ郊外の集合住宅で慎ましく生活し、タルコフスキー家の歴史をライフワークとして紡ぎ続けている。どのときも心配りのある協力を惜しまずに、暖かく迎えてくださる。その度に父と兄への敬愛に包まれた部屋に、彼女の凛とした笑顔とエスプリの利いた夫のジョークが溢れる。

三男がドイツに住んで久しいが、子らは、地球上のどこかで元気に生きてくれていればよし、とわたしは思っている。同じように思える日本と世界の各地の友人たち。こちらを想ってくれていることを確信できる人たち。

その中にソウルの林さん一家、エレナとモスクワの二人、長い時を経、距離を隔てても、常に「今」として心を通わせられる近隣の国々の友人がいる幸せを胸内に抱く。

林一家とエレナ・トゥタッチコワ

「きんりん」Vol.8 2019年10月20日 発行

制作:エクリ
写真提供:エレナ・トゥタッチコワ/エクリ
ロゴ:伊藤弘二
レイアウト:須山悠里
文責:須山実・須山佐喜世(エクリ)

この記事を書いた人:ecrit
エクリは、東京の編集出版事務所です。 平凡社コロナ・ブックスをはじめ、専門性の高いビジュアル・ブックから、展覧会図録まで幅広い編集と、年に一冊のペースで、詩画集を始めとするアートブックを刊行しています。 また、事務所内に併設された「木林文庫」では、古今東西の「木」にまつわる本が集められています。予約制の図書室として一般公開しています。