寒気に尖るホイッスルの響き。芝生の緑が照明に映える。暮れも押し詰まった厳寒の駒沢補助競技場には、あの頃のように見学の父親たちが数人、マフラーに首を埋めてコート脇に立っている。二十数年ぶりに見る中学生のサッカーだ。
かつて三男がお世話になった、世田谷と目黒を中心にした中学生のサッカークラブ、プロメテウスEC(当初のクラブ名はエスペランサFC)の林英雄さんは現在、総監督となり、ご長男の英俊さんが中心になってチームを見ている。選手の数を二十人程としているのは当時と同じだが、現在はジュニア・ユースだけではなく、高校生のユースチームもつくられている。スポーツ指導者というより教育者を思わせる林さんの風貌は今でも変わらない。
私が初めてサッカーに「関わった」のは、大学の授業の選択スポーツだった。走ることだけには自信があったからで、紅白戦ともなれば、必ず先にボールに追いついた。追いつきはするけれど、まともに蹴れないのだった。空蹴りしたり、ボールに乗ってしまったり、当たってもぺちっと頼りない音がするだけである。おーっという賛嘆とあーっという落胆憫笑がセットで繰り返されていた。だから、一人旅したスペインの二基の風車が立つラマンチャの丘でボールを蹴っていた数人の少年たちから一緒にやろうと誘われても、首を振るだけだった。今でも無念な思い出だ。
私がボールに弄ばれていた丁度その頃、林さんはブラジルに向かう船上でサッカーボールと遊んでいた。一九七三年に船によるブラジル移民が廃止される五年前、一九六八年のことだ。
四人兄弟の末っ子である林さんをサッカーに引き入れたのは三番目の兄。通学していた渋谷区の鉢山中学校のサッカーチームの中心選手だった。当時の林さんは野球をやりたかったけれど、兄の強い勧めに従ったのだ。兄は複数の大学から特待生の申し出を受け、進んだ大学でのサッカー部を創部させて練習に励んだ。卒業後は恐らく当時の実業団チームでプレイできたに違いないが、叶わなかった。兄は自宅の庭での剪定作業中に脚立から落ちたのだ。反射神経抜群の兄が転落するという信じ難い事故を見た者はなく、発見された時には亡くなっていた。その年度のサッカー部が大学三冠を獲得したが、兄は後輩の雄姿を見ることなく、晴れやかな国立の舞台で遺影だけが見守った。
林さん自身も高校、そして就職した社会人チームでもサッカーを続けていたが、その後の道筋を決定づけたのは、一九六七年にブラジルのクラブとして初めて来日したマドレーラ、後年来日したパルメイラスの試合を観戦したからである。サーカスのような華麗なテクニックの連続に釘付けとなり、思いはブラジルへ飛んでいた。
サッカーに魅せられた青年が一途に彼の地を目指すのは尤もだけれど、少年サッカー指導者の知と熱を穏やかに漂わせる様子からは想像できない無鉄砲な渡航だったのである。三カ月の短期ビザとさして多くない手持ち金、受入れ先の当てはなく、知人もいない。分かっているのは名だたるチームのある都市くらいだった。とはいえ、王国と称されるブラジルには1000余を超えるプロチームが犇めいているのだ。頼りは初心者向けのポルトガル語入門書一冊。幸い四十五日を過ごす船内では、ブラジルのドクターが渡航者向けの即席ポルトガル語講座を開いてくれた。医者らしい荒療治で、「R」の発音がままならない林さんの舌に鉛筆を挟み込んでの矯正だった。脱落していく人が続出する船上講座では一人きりになっても齧りつき、毎夜入門書の見開きページを丸暗記した。ボールは途中で海に落としてしまったけれど、入門書は丸呑みして身につけた。
大河アマゾンを遡り、河口の街ベレンで入国手続き。そしてブラジルサッカーの洗礼を受けたのは、リゾート地コパカバーナだった。六,七歳の少年たちとボールを蹴り合ったのだが、簡単には抜かせない足さばき身体の使い方である。歩き始めた時に蹴り始めているとは、文字通りのことなのだった。そして、噂通り裸足の少年が多かった。
サンパウロに着いてからは、旅行業者が無断で名前を書いた荷物で密輸として疑われてしまい、南米の大らかさに浸っても、隙を見せてはならないことを思い知る。入国後一週間してトラックに便乗させてもらい二〇〇〇Kmの旅に出た後、知り合った農場主の助けで、当時ブラジルリーグの二部にあったチーム、ナシオナル アトレチコの練習に参加できることになった。農場主自身がサッカー好きだったので、力を尽くしてくれたのだ。なにしろ彼は使用人たちとボールを蹴るために、敷地内にゴールポストを置いている程なのだった。林さんは引き続き農場に宿泊させてもらい、週四回の練習に通うことになった。
日本人初のブラジルサッカー留学のピッチに立つ日、練習前にシューズのチェックがあり、日本で購入した靴を見せると、コーチが「これは駄目だね」と一言。サッカーシューズは折り込んでポケットに入るくらいでなければ役に立たない、という。聖地で買い直した一足目のシューズは、数十年を経た今でも家に置いてあるそうだ。
日本でのポジションは8番のインナーだったと伝えると、そこに入ってみろと言われた。
三十人程のチームに外国人はいなかった。ナショナルACでの初めてのプレイはナイターだった。電力が乏しいらしく照度はかなり低い。そして芝生は深く、相手は皆素早かった。暗い、見えない、早いの中、何もできなかった。後日行った昼間の練習、ミニゲームで林さんは三点を蹴り込んで、皆と抱き合い、チームの一員となった。
ビザを三ケ月延長しチームでの練習を通して、林さんはこの地でサッカーを続けられるという感触も掴んでいた。しかし永住権を取得するためには、まとまった金額を用意しなければならない。農場主の世話になり、持ち物の切り売りで辛うじて凌いできた身では、延長に無理があった。帰国の選択は、その後サッカーとの繋がりがほとんど無くなるであろうことを意味していたが、道半ばという後悔はなかった。
帰国に際して、日本への土産は蝶だった。林さんは兄たちの影響で、サッカー少年であり昆虫少年でもあったのだ。南米は蝶マニアにとっては垂涎の青く輝く大型の蝶、モルフォの宝庫である。採集しパラフィンで三角紙を作って収納して持ちかえった。
その数は実に七百頭だというから、日々のボールリフティングよりも集中したのではと突込みたくなる。足だけでなく、手先も器用だったのだ。後日、その一部は自身の結婚式の引き出物になったそうで、ブリリアントブルーの翅で張り合わせ「寿」としるしたのだという。
「ブラジルへ」という、当てのない林さんの希望を聞いて、「行かせてやろう」と言ってくれたのは、昆虫標本の作り方を教えてくれた次兄だった。観光ビザでの渡航とはいえ、永住の可能性も潜めているのも知っていただろう。その兄へのブラジル土産をモルフォ蝶にした。
ブラジルから戻った一九七〇年代のサッカー界は、まだまだ注目度が乏しかった。少年サッカーの裾野が徐々に広がったのが「キャプテン翼」の連載が始まる一九八一年頃である。Jリーグの発足でサッカー人気が本格的に高まるのは更に十年先になる。そのような状況では、サッカーに携われるような仕事は皆無に近く、林さんが選んだ仕事は教育関連出版社だった。偏差値真っ盛りの中教材の納入から受験塾、職員研修会、学校間のM&Aに至るまでの職種に違和はなく、むしろ仕事をつくることが喜びだった。気兼ねなく大胆に新分野を開拓できる裁量権のあるポジションを得てからは、モーレツ会社員として邁進し矢の如くの二十数年を過ごした。サッカーから遠ざかってしまったが、ブラジルへは一度家族四人で観光旅行に出かけている。
一九九三年のいわゆるドーハの悲劇を経て、サッカーに無縁だった私のような者も、日本代表チームの試合中継を見るようになっていった。小中学生たちの熱気も年を高まっていく中、小学生の次男三男が学校のサッカーチームに入ったことで、一気に魅力に取りつかれた。自分の子どもが蹴っているのは、頗る面白く見飽きない。野球一辺倒だった義父も、すっかり孫サッカーに魅入られてしまい、肩を並べて見物するようになった。
林さんの長男英俊さんも小学生になってサッカーを始めたけれど、通っている学校内にはサッカーチームがなかった。五年生になったとき仲間を募って、学校にチームを作りたいと申し込んでいる。学校側からバックアップは一切せず、生徒たちの自主管理に任せる。コーチや運営は父兄に委託するとともに、華美なウエアーをつくるようなことはしない等、細かな決め事を示された。そこで、林さんにユニークなサッカー経験があるのを知る親からコーチの打診があり、引き受けることとなった。しばらくして、思いもかけないことが起こる。チーム運営の父母たちの主導権争いが故で、林さんは正式な指導者認定を持っていないから相応しくない、という指摘をされたのである。小学校や地域のスポーツクラブは学生や父親の有志の指導が通常で、プロの資格が必要ないのは自明だ。しかし親が顔も口も出す小中学校のスポーツクラブには、通常コードでは読み切れない地雷原のあることが少なくない。すぐにJFA公認指導者資格と審判資格を取得したが、FIFAライセンスの方がはるかに価値は高いと思っていた。
このことで、想いが一気に急旋回する。自分はもう一度サッカーの中で生きていくのだ、と。「そゞろ蹴音耳につきて心をくるわせ、取もの手につかず」という三十年目の物狂いである。奥様は呆れかえり仰天し猛反対した。ブラジルへの心酔は知ってはいたけれど、四半世紀遠ざかりながら何を今さらなのか、である。
それでも林さんは退職し、一九九九年、五十歳で再びブラジル行きを敢行した。FIFAのライセンス獲得のため、指導者研修を受けにきた林さんを、サンパウロの新聞がインタビューして顔写真入りの記事を大きく掲載している。「三十年前、日本人として初めてサッカー修行にやってきた男が再びこの地に」と大見出しが付いている。
帰国後の同一九九九年、ジュニアユースのサッカークラブを船出させ、募集チラシのポスティングから始めたのだった。勤め人時代には綿密だった市場リサーチの類もしなかった。かつての仕事の出版社の顧問の他、選り好みせずに仕事を引き受け、貯蓄の取り崩しと貸していたマンションも売却して設立資金や活動費を捻出しながらの運営だった。
大波小波が漸く凪いだと実感できたのは、十周年の会を開いて更に数年を過ぎた頃からである。
私の三男は六年生になってから目黒区の選抜チームでもプレイしていたが、メンバーの父親から新しいクラブへの誘いがあった。知人がジュニアクラブ創設の準備をしていて、当面小学生でも参加できるから三男も一緒にどうかという。三男はすぐに飛び込んだ。世田谷区と目黒区の小六と中一の生徒たちが十五人程参集していて、彼らがエスペランサ(プロメテウス)の事実上の一期生となった。三男が参加した初年度から夏期のサンパウロのチームへの短期留学も実施され、同期では早速二人がブラジルへ飛んでいる。
薫陶を受けた私の三男は、アメリカの大学のスポーツトレーナー学科を経て、英国に渡りUEFA Bコーチのの資格を取得、現在はデュッセルドルフのアンダー16のチームの監督をしている。彼は当時の指導を振り返り「エスペランサで教えられたのは、個人スキルに特化したサッカーの本質の部分だったよ。おかげで、アメリカ、イギリス、ドイツと国が変わっても、サッカーを楽しめている」と言う。
一期生の時も招かれてくるコーチ連は豪華だった。その一人、ブラジル1部リーグのポルトゲーザでプレイしていた檜垣裕志さんの身のこなしは、これぞブラジルサッカーと云える柔らかさで、少年たちは絶えず「すげぇー」と賛嘆の声を連発していた。現在はやり手のエージェントとして著名なテオ(コンスタンチン・テオドロ)はまったく容赦がなく、奪ったボールを二度と渡さないのだった。
また、under15のブラジルチームを招いての交流試合も二度に渡って実現させているが、呼んだチームが来日しないという破天荒のトラブルがあった。主催者の林さんは多額の違約金を関係者に支払う羽目になり、「ブラジル人と約束したら駄目だよ」とまで苦言同情を浴びることとなった。この時が小舟転覆の危機となる最大の大波だったのだろう。
現在のスタッフは冒頭に記したように、ヘッドコーチ英俊さんの他に二人の専属コーチを擁している。英俊さんは上智大学のポルトガル語コースで6ケ月間学んでから、ブラジルのチーム、クルゼイロでプレイし、サンパウロサッカー協会のライセンスも得て帰国、北陸のチームなどでプレイした後、二〇〇九年にプロメテウスのヘッドコーチに就任している。まさに父子鷹だ。
サッカーを通しての異文化交流、国際理解をクラブ運営の主な柱としているプロメテウスは、国際スポーツ文化交流協会という非営利型の法人を基盤としている。異文化交流とは、彼我の違いを比べたり換算したりすることではなく相互還流であるという、自身の経験を、少年たちにもそれぞれの身心で体験して欲しいと考えているのである。
チームに外国籍の少年の参加を募っているのもそのためで、ブリティッシュ・スクールやアメリカン・スクール等から、今は六人の少年がチームに所属しており、帰国子女も多く参加しているクラブとなっている。
現在、林さんが取り組んでいるのは、プロメテウスを含めたサッカーチームのことだけではなく、地域のあらゆるスポーツクラブが抱えている活動環境の改善である。アウトドア、インドアを問わず、スポーツクラブは練習場の確保が課題で、それは数十年変わっていない。その状況の打開を図るため、林さんは世田谷区の廃校となった中学校敷地を借り受け、他の競技グループとも共同使用する申請書を資金の提供を申し出た方との連名で提出した。世田谷という土地柄、大手不動産会社やデベロッパーに抗しての交渉は難題含みであるが、壮大な計画が実ることを願っている。
無謀なイデアリストは生涯現役なのであろう。
制作 :エクリ
ロゴ :伊藤弘二
写真 :大野貴之
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レイアウト:須山悠里
文責 :須山実