「きんりん外様の岡村さん」と私が呼ぶ。すると岡村さんは反撃する。
「目黒区立油面小学校と五中卒業ですよ、僕は。古書店流浪堂の二見さんの先輩」と。
岡村さんの現在のお住まいは、ブラジルのサンパウロなのだが「預言者故郷に入れられず」が口癖で、出自の無化を標榜する御仁の出自は祐天寺駅近く、まさにお隣組だったのだ。
「そして大学では目黒東山貝塚出土の縄文土偶に触発された考古学徒。よって外様扱いは論外、譜代はおろか親藩」と真正コスモポリタンからの茶々は止まるところなしである。
『リオ フクシマ 2』福島原発事故を即興でうたうブラジルの吟遊詩人
ドキュメンタリー映像作家岡村淳さんは年に数回、この地球の大外たるブラジルからライブ上映のために日本に飛んでくる。長時間の往復で心身は疲弊しても、遠隔の地から遥々とはつゆ思っていないのだ。自主的参勤交代である。来日の頻度、滞在日数が次第に増えているように思えるのは、「一人でもご希望があれば参上」の心意気と呵成の力作『リオフクシマ 2』の完成によるのだろうか。
祐天寺少年が長じて類のないドキュメンタリストになるまでの抱腹含みの成長話は、著書『忘れられない日本人移民 ブラジルへ渡った記録映像作家の旅』(港の人刊)に書かれている。メリハリの利いた早口は文章も同じ、ぜひご一読を。
一駅隣で少青年時代を過ごしていた岡村さんと私はかなり似た経歴を歩んでいる。私は目黒区立鷹番小から六中卒だが、近年、六中は五中と合併して中央中と改名している。そして学部は違え大学も一緒、かてて加えてバイト代を8ミリフィルムに注いだ映画青年。ちょうど十歳の差だから映画館や書店の名も馴染みだが、違うのは祐天寺駅界隈にはなかった映画館が学芸大学駅には二館あったことと「お国自慢」をしたところ、「祐天寺に金星座あり」とたしなめられてしまった。
大学時代、私がサークル仲間と投石乱闘のさなかにも撮影することのあったベルハウエル16ミリカメラは堅牢だったがネジ式で、フィルムを廻すために絶えずネジを巻いていなければならない。そしてフィルム交換も袋の中で手さぐりに行うので、不器用な私には苦労の種だった。
後追いの岡村さん世代でも、まだ技術事情は大きく変わらなかったはずだ。ハンディビデオカメラの出現という、たった一人ですべてをこなせる制作条件の早い到来は予想を超えていたのではなかろうか。もちろん、条件が整っても誰もができる作業ではない。ドキュメンタリー番組のディレクターとして限られたスタッフで辺境と云える地域を飛び回って積んだ経験を下地として、1987年、岡村さんはフリーランスとなる。それまでの取材で奥深さに魅せられたブラジルに移住した岡村さんは、ひとり取材の映像記者の仕事を通して自分のスタイル、方向性を確立し、十年後の97年から自主制作をはじめている。このような人たちがいる、生きているという姿を辿り、残し伝えようとする真正のドキュメンタリスト魂が場所を得て発火し、燃え続けているのだ。
自主制作の第一作目『生きている聖書の世界 ブラジルの大地と人に学ぶ』から2018年までに作品本数は長短編合わせて45本、私たちがそれらの作品を見るとき、その場には必ず制作者岡村淳が立ち会っている。撮影からナレーションと字幕作成を伴う編集作業、そして監督本人が操作し観客と語り合うライブ上映である。映像の中でずっと聞こえてくる岡村さんの声が、ライブ上映ゆえ会場でも聞こえているので、撮影現場と上映現場が一続きとなる。まさに臨場で、時空の隔たりが極力排除されることになるわけだ。ひとたびライブ上映に立ち会うと、岡村さん抜きの作品鑑賞は考えられなくなってしまう。上映とアフタートーク、そして近隣酒場での懇親会、この三つで「岡村ライブ三位一体」と自称しているらしい。一人全役を担う監督の姿、観音とはちょっと言い難いが、人懐っこい風貌から千手地蔵さんと名づけたいところ。
「ラテンな人」という雑駁なレッテルも半分は当たっているはずだ。しかし上映後の懇親タイムなどでは、細やかに話を左右に振り話題を引き出している。そしてライブ上映のとき同様、頻繁にノートを取る。左手が素早く動いている。「カメラ万年筆」という映画草創期の言葉が浮かぶ。
暑い国から来た男は熱い人である。その身フリーランスであれば、「あの野郎・・・・・」と不穏な捨て台詞を数百回は呑んできたことだろうが、すべてを笑い飛ばせる度量と自信が漲っている。身一つ、監督の表現を借りれば「徒手空拳」だが、あれやこれやの後ろ盾の代わりに、監督に負けずに心熱いシンパに恵まれている。それも年齢性別さまざまで、求めずして集まっているようで、回転草のごとくシンパグループはどんどん大きくなっている。独立独歩というより、行方定めず独走する監督はファンを巻き込み引き連れて日本全国をハメルーン化させている。京都、大阪、兵庫、島根、広島、鹿児島、秋田、札幌、さらにさらに。「移動映画人」と呼ぶべきか。ライブ上映会場では水戸の手打ち蕎麦屋「にのまえ」主催がダントツである。2018年までで、すでに30回を数えているという。
学芸大学駅でのライブ上映は、ずっと古書店流浪堂が主催だと思っていたが、西口の喫茶店「平均律」で2012年に数回行われていたのだった。「平均律」は岡村さんのホームカフェだそうである。監督の趣味世界たる「ナメクジ」ものもここで公開された。
流浪堂が岡村さんと関わったはじまりは2015年1月、スペース・トーチカで開催された監督の血となり肉となり脳を形成した本や映画の紹介展示だった。「反骨の軟体 岡村淳の脳内書棚」と題されていて、言い得て妙、とはこのことだろう。流浪堂二見さんは「己の作品に対する責任感をまっとうする凄みと掴みどころのない飄々としたおじさんが同居」と岡村さんを評している。展示のためにつくられた手づくり感満載の冊子の表紙絵は二冊とも、こうのまきほさんである。岡村さんが流浪堂に初登城した2013年のある日、ギャラリー・スペース「トーチカ」の展示がまきほさんで、彼女の作品に一目惚れしたのだ。惚れっぽいことは大きな才であろう。一瞬で人の裡なる光を感受し、受けた想いを投げ返す伝達の速さ。それは「ライブ」の核となるものでもあるはずだ。
脳内解剖展に合わせて、流浪堂に真近い鷹番住区センターで、全6回の上映会が開かれた。学大に印された大きな一歩であった。同じ学芸大学の古書店サニーボーイブックスでも「脳内書棚」のbisとも云える小展示があり、上映会も開かれている。
古書店が主催・共催する上映会はまさに北から南、北海道の書肆吉成、大阪の書肆アラビク、倉敷の蟲文庫、沖縄の言事堂、古本屋ウララ。拠点はいずれルートになるだろう。
監督もすなる日記「岡村淳のオフレコ日記」を遡上して確かめると、岡村さんがはじめて木林文庫に来られたのは2015年10月30日のことだった。
日記には、“『ホフマニアーナ』の挿画を担当した山下陽子さんもいらしていて、美酒珍味のご相伴にあずかる”とある。そう、明るいうちからアルメニアコニャックを四人で呑んだのだった。後日、監督から驚くほどの返盃を頂戴した。サンパウロ州の木々を撮った大判(360×360mm)の写真集“RAIZES”を持参されたのである。約2.3㎏、とても重い。
樹木の生命への畏怖に貫かれた写真で編まれた“RAIZES”は木林文庫のビューローの上で、いつでも開かれるのを待っている。
『あもーる あもれいら』シリーズ取材中の岡村監督。ブラジル南部パラナ州の保育園にて
「インタビューするのは不得手(噓!)だけれど、されるのは好きだからお手並み拝見」と云われ、真っ正直なひょろ球を一つ「編集において自分に課していることは」と。上映時間の数倍に及ぶはずのストックから、どんな姿勢で切った貼ったをされるのかにもっとも興味があった。
「カメラを回すのをシュート=撃つ、と言いますからカメラマンは狩人と同じ。狩猟者は獲物を<いただく>わけで、取り過ぎは道断。撮ったものは極力すべて使う、それが撮られた方への礼儀でもあります」。
撮影、制作すべて一人だからこそ可能なスタイルだと云える。「撮る」は「盗る」ことの危険性に満ちているが、カメラ自体に神経はない。神経を捨てて傲慢に走るのは、もちろん使い手である。三脚を使わず、手持ちが基本の岡村監督のカメラ、被写体の側からすれば、カメラと対峙する意識が薄れ、カメラマンとの対話している感覚に近くなるだろう。撮影時の流れも、ほとんど入れ替えないそうだから、観客は監督の時間をそのまま追体験することになる。
岡村さんも時によって怒りを隠さない人だが、カメラワークは抑制が利いていて対象に密着しつつ節度のある距離を保ち、感情の波を持ち込まない。そして鑑賞者に対しては見方考え方を提示せず、ニュートラルな問いを投げかける。
岡村作品では主人公として撮影されている人だけではなく、映されたあらゆる人、風の流れを含むすべての画像は等しく扱われていて、強弱の差がない。全体の長さの数パーセントほどの短い表情や言葉が精彩を放ち、記憶に刻されるのもその姿勢からだ。そのことを強く実感したのが『リオフクシマ 2』だった。2012年6月にリオデジャネイロで開催された国連環境サミットと並行して開かれた「ピープルズ・サミット」の記録である。このときの岡村さんは多忙だった。会場はかなり広く間延びしており、いくつものグループが離れ小島のように点々と広がっている。岡村さんは監督業に加えて、インフォメーションが不完全な会場での通訳兼コーディネーターで走り回るが、その間もカメラは止まらず、対象が限定されないカメラアイは、不毛な言葉を放つ面々さえも一まとめに淡々と捉えていく。手練れのドキュメンタリストは清濁併せ呑むのだ。そうした空転駄語の経糸に不意に光を放つ横糸が走る。ブラジルの高校生や「吟遊詩人」、世界的な環境活動家などのごく短い映像と言葉だ。そしてサミット翌日、追伸のように添えられた、緑あふれる国立公園の清涼な一こま。
これまで見た岡村監督作品の中で、私は『KOJO ある考古学者の死と生』に一番惹かれている。監督曰く『地獄の黙示録』と同じくらい長い作品。その長い三時間半をかけて岡村さんは、不可解な死を遂げた考古学者・人類学者の古城泰に関わりのあった三人の話を聞きに行く。それぞれカンボジア、フィリピン、日本の調査発掘現場に携わっている方たちだ。死という置手紙は遺された者にはいかようにも読める。監督にとっても交流のあった先輩だから黒子の立場にはなく、関係者への質問は自問でもある。生者の日常空間で一つひとつ並べられる死者との距離。他の岡村作品の対象とは異なるけれど、ここでも私たちは監督の時間に臨場することになる。
2019年3月の岡村さんの来日の折、エクリの事務所でプライベート上映会を催した。「木林座」と称して、何人かの友人と共に見た作品は『ばら ばら の ゆめ』。神奈川県内にあるブラジル人学校に通う十四歳と十一歳の姉妹と、歌手志望の二人に歌唱指導するギター好きの保育士を撮った映像はとてもリリカルな仕上がりだ。岡村作品の中で五本の指に入ると讃を捧げる流浪堂の二見さんも、もう一度見たいと参加。
この作品でもまたオカムラ・スタイルの魔法が生きていて、差し挟まれる監督とのやりとりはカメラを介していることを感じさせず、私たちは被写体となった人々の言葉に立ち会って、今このときのかけがえのなさを共有している。少女たちは屈託なく率直に、男性保育士は揺れる思いを訥々と愚直に語り、長い移民生活を経てきた両親の目には苦い日々が揺曳する。五本の指と推せるほどは岡村作品を多く見ていないけれど、皆に薦めていきたい。
「口ずさむべき一篇の歌」のない私がそれでも口の端にのせる歌詞断片がある。時折ベランダから空を眺めていると「島唄よ風に乗り」と洩れ出てくるのだ。この「島唄」を歌っていたTHE BOOMの宮沢和史さんが著書『足跡のない道』(マガジンハウス刊)の「後書きに代えて」で、こう書いている。
「後書きに代えて、この場を借りて紹介したい人がいる。ブラジルに渡り、自ら移民となり、たったひとりでブラジルの日系人達を映像として記録し続ける岡村淳さんだ。歴史の片隅で、広大な大地にひっそりと、そして、たくましく生きる人々の足跡を知ることで、ブラジルという宇宙が少しずつ解けるかもしれない」。
2005年にブラジルでコンサートを行って以来、数十回のブラジルへの旅を重ね、移り住んだ日本人や街を訪ね歩いた『足跡のない道』の文は誠実で謙虚であり、宮沢さんが岡村監督に強く共感する訳がよく分かる。「歴史の片隅でひっそりと、たくましく生きる人たち」に気持を寄せる眼差しが同質のものだからだ。ドキュメントは現地に行かねば始まらないが、来て見て、始まるわけではない。気持を寄せることで、始まりの始まりに立つ、いつも初めて。
夜も半ばを過ぎて、学芸大学でのインタビュー兼夜会を終えた後、目黒の縄文地霊に感応する監督は一駅分を歩いて帰った。いまは足下に隠された谷戸前川の流れを聴きながら、ゆっくりと歩いて行くのだろう。そして目を閉じれば、微かな水音の向こうにブラジルの大滝の轟音が見えてくるだろう。
制作 :エクリ
写真 :大野貴之
写真提供 :岡村淳
ロゴ :伊藤弘二
レイアウト:須山悠里
文責 :須山実(エクリ)