遡ると、はじまりは葉山の書店だった。
「丁度いまエクリさんの『空と樹と』を購入された方です」と紹介されたのは、國學院大學でフランス語を教えている笠間直穂子さん。
程なく、その年の二〇一六年七月に、國學院大學外国語文化学科が主催する「多言語・多文化の交流と共生プロジェクト」として企画された「旅する音楽」のリーフレットが、笠間さんから送られてきた。出演はパリを拠点として活動するサクソフォンとウードの二人組のユニットkyと、日本のウード奏者がゲストとなっている。
楽器の名も知らなかったウードはもちろん、サックスの生演奏も初めてである。
私が好きなサクソフォンの音色は「アルルの女」間奏曲。薄れてゆく光に漉き込まれたようなビゼーの旋律は、他の管楽器からは生まれないだろう。
この日、仲野麻紀さんのサクソフォンと歌、ヤン・ピタールさんのウードとで奏でられた数々の調べは新鮮で力強く、かつ繊細だった。演目は、エリック・サティ、中東やアフリカの民族音楽、さらに「大漁歌い込み」など。私たちは、この日以来、kyのサティを聴き続けることになる。
ピタールさんは終始穏やかな表情で、情感をこめてウードを爪弾き叩く。一方、仲野麻紀さんは光も闇も切り裂く船首像のような立ち姿で、歯切れのよい、また時には、どこまでもうねり差し込むような深い音を出し続ける。共鳴している当方の息が切れても延々と続く。
サクソフォンの音色は多彩だ。腹の底から絞り出される苦衷の声があり、また陽光が華やかに跳ねまわる切れの鋭い曲想もあり、咆哮、囁き、悲しみがある。
わたしはこの日、不思議な懐かしさを感じた。これまで触れたことがある木の弦楽器、琴やバラライカに通じる、悠久に紡がれてゆくウードの音の粒。バラライカより古いグースリ、ドムラなどのロシアの民衆楽器は、中世ロシアで、スコモローヒと呼ばれた旅芸人が、お上の圧迫を潜り抜けながら弾き語った弦楽器だが、刻々変容する自然の音に耳を澄ますかのようなウードは、いつどこを旅してきたのだろうか。その旅と分かちがたく歩むサックスの音、その蝋燭の炎のような揺らぎにわたしの中で重なるのは、「自ら自然の音に達しようとする」と語られる、かつて琴と合奏した尺八の音だった。吹き通うハーモニーに包まれる。
終演後、受付に設けられていた販売場で、その日の会のタイトルと同名のCDを手にした。フランス語のタイトルは“Musique Vagabonde”となっている。Vagabondeには「旅する」の背後に少々アナーキーな香りが漂っている気がする。旅と音楽が仲野さんの日常では入れ子になっており、音楽と旅の裡に常の栖があるのだろう。
そして同じ年の十月に開かれた下北沢のB&Bでのドリアン助川さんとのトークと演奏では、仲野さんご自身の著書、『旅する音楽 サックス奏者と音の経験』(せりか書房)を購入した。日本の大学を卒業後、パリ市立のコンセルバトワールジャズ科に入り、フランスを中心に演奏活動をしているという経歴の概要を知ったけれど、この本の背骨をなし、仲野さんの姿が鮮明に立ち上がってくるのが、バラフォンという楽器とのパリでの出会いからのエピソードである。その演奏に魅せられ、「熱病のような情熱にかられて」パリから西アフリカのマリとブルキナファソに至るその足取りは、越境の決意とは無縁の軽やかさだ。音を訪ねているうちに国々の境を跨ぎ越しているかのようだ。インプットとアウトプットの鼓動が聴こえてくる。訪ねて行った村で音源を取り、ついには日本への招聘を画策実現さてしまう。さながら火を吐き天駆けるサラマンダー、仲野さんは演奏者であると同時にプロモーターでもある。
kyのサックス奏者、仲野麻紀さんは四年ほどの間、私たちには壇上と盤上の人だった。
盤上の人だった仲野さんと直接のつながりができたのは、最初國学院大でのkyのライブにお誘いしたK夫妻を通してである。私たちはこのライブの後、B&Bと本郷の求道会館での演奏会に行ってからは、もっぱらCDリスナーになっていたけれど、お二人は真正の追っかけファンとなり、来日の度に都内や三島の美術館での演奏会に出かけていたのだ。そして直にお話するようにもなり、kyの音に出会った経緯を伝え、さらに『空と樹と』を贈ったのだという。この本は著者の長田弘さんがあとがきに記してくださったように「幸福な書」だ。人と人を呼び合わせてくれる。
二〇二一年の初めから、仲野さんが拠点としているブルターニュと目黒でメールのやり取りがはじまり、ギフトの交換もした。私たちに贈ってくださったのは、kyの新作CD「CYRCLES」だった。サティとkyの曲がほぼ交互に配されたアルバムである。私たちはエクリ刊行の『木の戦い』を送った。仲野さんの樹への想いを知ったからだ。「ウード」という琵琶に似た楽器の名は、アラビア語で「樹」を意味するのだ。ユニット名の「ky」の音は「樹・木」につながるという。そしてまた、フランス語の「qui/誰」も連想させるそうだ。私自身は、「keyからeが抜けているので、失われた鍵の意かなと」思っていたけれど。
そして二〇二一年の五月、日本滞在中の仲野さんに木林文庫に来ていただくことになったが、着くなり彼女は、「懐かしかったです。しばらく歩き回ってきました」と言ったのだ。
この一言から、遅ればせに仲野麻紀さんがかつての「近隣住民」だったことを知った。麻紀さんは大学の四年間、私たちの住まいから歩いて十五分程の柿の木坂や小山台に住み、林試の森公園が散歩コース、私たちが何度も買いに行っていた駒沢通沿いのパン屋がアルバイト先、そして三軒茶屋の大学へは自転車で通っていたという。
しかし彼女にとっての「私の大学」はジャズ研の集まりでしょっちゅう顔を出した大岡山の東京工業大学であった。東工大は理工系ゆえ、学生が実験室で夜明かしも常だからだろう、外部の人間も出入り自由、照明も冷房もつけて終夜、サックスを吹いたこともしばしばだった。麻紀さんだけではなく、他大学からの来訪も盛んで、すでにプロとして演奏活動をしている人たちも顔を出した。東工大のキャンパスは喧騒とは無縁に見えるけれど、沸騰する音熱を潜めていたのだ。
麻紀さんは中学まではエレクトーンを弾いていたが、高校時代にジャズピアノを習いはじめたという。中学生のとき、名古屋のジャズ喫茶「ダシール・ハメット」に連れていってくれたのは、お父様である。当時、自宅の一室を絶えず占めていたのは異国の若者だった。両親がホームステイで留学生を受け入れており、世界各国の学生が入れ替わりに住んでいたのだ。十代にして、国の混淆は日常だった。
入学時の高校で、「君はガタイがいいから是非うちに」と強く勧誘してくる体育会系学生たちに囲まれながらも、惹かれたのは吹奏楽部員が演奏するサクソフォンだった。「これが、いつか演奏するだろうと、空想の中で描いた楽器だ」と思ったという。「演奏することになるだろう」。素敵な未来形だ。
「私の大学」での修業を経て、海外で学ぼうと決めたとき、アメリカは視野になかった。一度訪れてみて、ここは自分に合わないと感じたのである。特にフランスへの強い思い入れがあったわけではないけれど、パリのコンセルバトワールには興味があった。その直感は実を結んだ。多彩な講師陣と個性豊かな仲間に恵まれた音楽院で得たものは、自分の音への信頼であったろう。「Reciprocity(互恵) とEmpathy(共感) 」、音楽にはこの二つが瞬間に行われている。人類が根底で求めているこの二つの欲求をジャズは孕んでいる」、それを確信した四年間だったのだ。
音楽院卒業後、パリで行われたジャムセッションで、麻紀さんは編曲のクラスで同級だったヤン・ピタールさんに再会する。彼はエジプトでウードの修業をして戻ったばかりだった。
このセッションでは、共演者をルーレットで選ぶことになっていた。「1」に当たればソロ、「2」はデュオ、「3」がトリオ、そして「4」を引けばカルテットだ。演奏曲も籤で割り当てられる。即興を旨とするジャズに相応しい方法だ。麻紀さんは「2」を引き当てた。ここで麻紀さんが好むダダイスト・シュールレアリストたちの云う「偶然的必然」そのものが顕現する。「籤」によって選ばれたのは、kyを組むことになるヤン・ピタールさんだった。二人が後に意気投合したのは、好む曲がエリック・サティだったからである。「孤独に世界を震わすウード」と世界に光と影をふり撒くサックスが融合し、二〇〇五年からパリを中心に演奏活動をはじめて、早くも二〇〇六年には日本ツアーを行っている。私たちがはじめて聴いた二〇一六年のコンサートは、結成十年の全国ツアーだったのだ。
二〇一六年のCD「DESPOIR AGREABLE」のノートに「鳥たちの邪魔をしないこと、空気を大切にもてなすこと」とあって、二人のつくる音を精確に表している。はじめてのコンサートで聴いたサティの「グノシエンヌ」は音のもてなしだったのだ。kyによる本歌取りは敬意に充ちた捧げものである。
先に挙げた『旅する音楽』の各章の扉には俳句が挙げられている。初読の時には気に留めなかったけれど、後に麻紀さんのtwitterのネームが漂泊の俳人、尾崎放哉の句「咳をしても一人」となっているのをみて、句作との距離を知ったのだ。麻紀さんのtwitterに貼られる写真には手摘みの花、キッチンの一角、海辺の叙景、読みさしの本のページ等がある。そこでは物と眼の間で交わされた挨拶があり、あえかな頷きが示される。時折俳句が寄り添っている。
スイカズラ折ってしまった香は記憶/夏の海骨を手放す軽さかな/摘むほどに香に満たされて夏の草/
音もなく滴る時の悲しみと視界の爽やかさがどの句にも息づいている。「JAZZってね美しき怒りなんです夏日色」という句もある。句作をしていたお祖母様が句集をつくっていたのに倣い、麻紀さんもいずれ自分でもと考えているそうだ。きっと、定型の句集とは違った色合いのものができるだろう。
「こんなよい月をひとりで見て寝る」という句が放哉にあるが、新月、上弦、満月、下弦の月の満ち欠けに合わせて、麻紀さんは二〇一七年から「openradio」というネットラジオ番組を放送している。病床に臥した友人の「声が聞きたい」という願いに促されたのである。
「こんばんは、今宵上弦の」とはじまるアンティームな声、切実な想いに応える声はいつも染み入る。
麻紀さんは旅する音楽家なので、発信の場所も移動し続ける。番組の終わりに「次はブレストにいるかな、それともモロッコに飛んでいるかもしれないな」などと言う。私たちは聴き始めて間もないけれど、放送は二〇二一年十一月十九日の時点で一八二回目となっている。三十分程の放送で、五、六曲が流されているから、これまでに取り上げられたミュージシャンや曲は膨大であろう。選曲もジャンルを問わないので、同じ放送内でチャーリー・ミンガスとベートーベンの弦楽四重奏が並んだりする。「世界は音楽に満ちているという事実と、人は音楽なしには生きられないという真実」が具現されるのは、彼女が共鳴箱だからなのだ。曲の調べやアーティストへの感応がまっすぐ紹介の言葉になっている。
二〇二一年十一月にリリースされた麻紀さんの初めてのソロアルバムは「openradio」と題された。曲の紹介や語りが入るので、ラジオ放送さながらである。このCDに収録された全十五曲のタイトルは、ハクスリーの『知覚の扉』や中上健次の『枯木灘』、夢枕獏の『陰陽師』等、すべて文学作品から取られているのだ。ブルターニュのフォルクローレを除く 十四曲が麻紀さん自身の作品、楽器も多様でサックス、クラリネット、ピアノ、アフリカの民族楽器カリンバや前述したバラフォン、何もかもが「一人」の多重録音で為されている。
俳句ばかりでなく、twitterに上げられる書籍の顔が、いつもポエティックなステップを成しているのが気になっていた。たとえば、『呪術誕生』(岡本太郎)/『歴史が後ずさりするとき』(ウンベルト・エーコ)/『生物から見た世界』(ユクスキュル)/『木の声、木霊』(白洲正子)/『和紙の旅 時と場所の道』(寿岳文章)/『知覚の扉』(オルダス・ハクスリー)と続くのだが、新しいCDの構成をみて得心がいった。すべては、一つの磁場の中にあるのだ。
「openradio」に私たちから献辞を捧げよう。
「一枚帆の船が多島の海と空を行く 風にまかせ水にゆだねる永遠の未来形 すべての音はあなた一人から」
二〇二一年十月から約三か月間、麻紀さん一人の全国ツアーが進行している。ウードのヤン・ピタールさんが体調を崩され、kyとしての活動は休止中なのだ。
珠洲、久留米、河口湖、茅野、白楽、朝倉、真庭、牛窓、和歌山、鎌倉、岐阜、谷汲、洗足池、佐渡、山谷、静岡・水見色、神楽坂・・・ツアー地が絵画的な連なりを描いていて、地名づくしの歌のようでもある。
場所も多様で、古民家に都内の路上、富士の裾野、保育園、画廊、コンサートホール、Bar等々。十年を超えて通っている場所もあるという。
来世はギタリストか料理人になりたいと言い、「練習を終えて、玉ねぎを切っている時がいちばん幸せを感じる」という麻紀さん。「ごはんをつくる場所には音楽が鳴っていた――人生の欠片、音と食のレシピ」と題して、勁草書房のウェブサイトに、演奏地で教えてもらった料理を上げている。シリア、ウイグル、アルジェリア、ギリシャ・・・と既に二十皿。「指は楽器を奏でるため、ごはんを作るため」と、ツアー中でも包丁を揮う。
二〇二一―二二年のツアー途上での振る舞い料理は、モロッコの「タジン」。場所は東京目黒の鷹番だった。
制作:エクリ
ロゴ:伊藤弘二
写真:大野貴之
撮影協力:ギャラリー古今
レイアウト:須山悠里
文責:須山実・須山佐喜世