学芸大学をもっと知る、カルチャーメディア

フリーペーパー「きんりん」WEB版 by ecrit

きんりんバックナンバー

伊川久美子

学芸大学 きんりん vol.14

伊川久美子

「西側のりんごだ」。

跳ねるような声を耳にしたのは、チェコ・スロバキアのブラチスラヴァでのことだった。私たちはドナウ河を前にした絶景のオープンカフェに、当地のコメンスキー大学に留学中の伊川久美子さんと座っていた。西のりんごは列車でのおやつにとパリで買い込んだものだった。日本の玉に比べると、フランスのりんごもかなり小さいと思っていたが、ここで売られているのはさらに小粒らしかった。

久美子さんが河の向こうの高台を指さし、ドプチェクはあの辺りにいるそうよ、と囁いた。「ドプチェクが!」と私たちが驚くと、彼女は「大きな声で言ってはダメ」とたしなめた。一九六八年のプラハの春からすでに十年余を経ていたが、ソ連によって拘束された、民主化の指導者ドプチェクはまだ幽閉されていたのだ。

ソ連軍の戦車がプラハに入ったという報を聞いたのは大学生の夏休みで、キャンプ地のポータブルラジオからだった。東京に帰った後、ソ連大使館への抗議デモがあると聞き随いていった。その日の小さな隊列は狸穴のソ連大使館から芝公園の近くにあったチェコ・スロバキア大使館へも向かったのだ。晩夏の澄み切った午前の光に包まれてドナウ河を眺めていると、「遥けくも来つるものかな」の感慨があった。

ワルシャワ条約機構が生きていた当時、住んでいたパリから東欧諸国への旅行はビザ取得がとても面倒だった。ポーランド、チェコ・スロバキア、ハンガリーの三国を一都市一泊の駆け足で回る予定だったけれど、一日の滞在でももちろんビザは必要だ。家人は何度かソ連に出かけていたが、私は初めての「共産圏」だった。だから各都市での思い出は今も鮮やかだ。

ワルシャワ駅からショパンの家があるズラゾバボーラという街に行った帰途のバスは途中から混みはじめ、立っている客が多くなった。乗ってきた若いカップルの女性が明らかに身重だったので、私は目顔で席を譲った。終着駅で下車すると、男性が英語で話しかけてきた。是非お礼をしたいので、時間があれば部屋に来ないかという。ほぼ同世代の気安さもお互いにあったのだろう、有難くと応えると二人は嬉し気に微笑んだ。私の英語は片言にも届かないレベルだが、宿代の交渉等をドイツ語でしなければならなかった民宿での苦闘を思えば気楽である。使わない方が無難と言われていたので、家人はロシア語を封印していた。

狭い部屋の小さなテーブルにつくと、トマトとサラミを乗せたオープンサンドと紅茶が供された。二人は大学の研究室勤務だった。子供ができたら、このテーブルが赤ん坊のベッドになるんだと言って、女性のお腹にそっと手を当てた。とっておきのスピリットだよと注がれた琥珀色の口当たりは、フランス産に勝るとも云われるアルメニアコニャックと双璧だった。送られてアパート前の広場に出ると、日が暮れきっていた。聳え立つ尖塔を擁した建物を指して、「ソ連製だよ。この下がワルシャワで一番暗いのさ」と言った。

伊川久美子
ドナウ川を背に チェコ・スロヴァキアのブラチスラヴァにて(1979年)

二年間の闘病を終え二十歳になる年、わたしは希望の上智大学ロシア語学科に入学した。高校時代同様、頻繁に保健室のお世話になっていたし、いつも身裡に耳を凝らしつつ一歩一歩を確かめるような思いだった。それでも、新たに始めたいことが積もっていて、キャンパスに通うのは心弾んだ。一年生は四十人くらいだったから、すでに親しくなっていた久美子さんにマンドリンクラブの入部オリエンテーションに誘われ、マンドリンなら身体への負担が小さいだろうと考え同行した。久美子さんは神奈川の県立高校からの推薦入学で、前年の十月には入学が決まっていたという。当時の入学予定者は各サークルにも住所氏名が把握されていたのか、マンドリンクラブから年末のコンサートのパンフレットが送られて来たので、聴きにいってみた。「カッコ良かったのよ、指揮者が。今すぐ分かるから」と言う。

この時知ったけれど、久美子さんは徹底した「イケメン」好みだ。後述するチェコのハヴェル大統領に至るまで一貫している。

久美子さんは小学生の頃から、異国への憧れが強かったという。英語の授業が始まってからいっそう外国語熱は揚がり、目指す大学は語学に絞っていた。「同時通訳」という専門職の名が脚光を浴びるようになっていて、受験期には外国語学部の人気は群を抜いていた。通っていた高校に届いた語学科推薦枠はロシア語学科とポルトガ語学科にそれぞれ1名だった。どちらも未知の言葉だけれど、地図を見れば選ぶのは大きい方だ、ということだったらしい。

新しい言語はフィットした。というより、後に修得する言葉が増えていくように、彼女は異国語に飛び込み、五感を馴染ませることが好きなのだ。

在学時、成人式の振袖の代わりにと、ソ連への二十日間にわたる研修ツアーに行かせてもらった。黒海沿岸のソチやオデッサまでも含む充実したスケジュールで、初めてのロシアは強い印象を残した。

大学の四年の後、久美子さんは東京外国語大学のロシア語学科に学士入学する。

外語大の在学中からロシア語の通訳をはじめた久美子さんは、学生添乗員をしたり、卒業後はソ連・旧東欧の芸術家を招聘する音楽事務所等にフリーランス登録をして仕事を続けた。東欧の人たちにはすべてロシア語が通じるから大丈夫と言われ、ハンガリー人の新進ピアニスト、シャーンドル・ファルバイの担当となったことが東欧のアーティストの通訳のはじまりだった。

一九七六年、日本で初めて開催されたチェコ・スロバキア音楽祭にチェコのバイオリニスト、ヴァーツラフ・フデチェクが来日した。ヴァイオリンの技量もさることながら、アイドル並みに人気のある美形フデチェクの随行通訳となったことが久美子さんのチェコ・スロバキア留学を大いに押したのだと、わたしは思っている。

フデチェックが伴奏ピアニストと母国のチェコ語で話すのを聞いていると、わかりそうでわからない。ロシア語だけでも仕事に支障はないものの、その言葉を知りたいという思いが募り俄然興味が沸いたのだ。チェコ語の文字はキリル文字のロシア語と違ってローマ字表記だが、スラブ語系の言葉なので初期文法書を読むとさほど違和感がなかった。

漠然と視野に入れていたことが、次第に現実味を帯びてくる。その頃、チェコ・スロバキアへの国費留学の募集は毎年ではなかったし、帰国後に大学で研究者になる人に暗黙の優先権があった。久美子さんは学者になる意思はまったくなかったので、条件は一層狭かった。入学決定早々一九七九年、久美子さんはブラチスラヴァに入った。私たちが再会したおり、「西側のりんご」と喜んだくらいだから、当時の東欧圏はまだ慢性的な物資不足にあり、最初の頃は体調を崩すこともあったという。圏内ではハンガリーが最も豊かだったので、買い出しでブタペストに行ったりもした。前述のピアニスト、ファルバイに連絡すると、駅で赤いバラの花束を持って迎えてくれたそうである。

前述したドプチェク氏が解放後、政界に復帰して連邦会議議長となって訪日した一九九三年、久美子さんは衆議院議長との会談の通訳を務めた。この時ドプチェク氏は「貴女ですね、ブラチスラヴァで学んでいたという方は」と言ったのだった。チェコ語、スロバキア語を話す女性がまだいなかった頃とはいえ、十数年前の大学のことを話されたのには驚いたという。「人間の顔をした社会主義」を掲げ、民主化に努めた人の穏やかな口調に久美子さんは胸を詰まらせた。この約一年半後、氏は自動車事故で他界している。

多岐に亘る専門に特化した分野の通訳に携わるときは、事前準備に相当な時間を割く。その学び倒すといえるほどの馬力には舌を巻くしかない。通訳は、翻訳のように日本語を探して迷走などしてはいられない。言葉の点滅、異語への瞬時の転換、通訳者の脳内はフルスピードで回転している。特に同時通訳で肝心なのは記憶に負荷をかけないことだと久美子さんはいう。超絶とも云うべき生来の早口は、もうアートの域に近い。彼女は判断も行動も言葉も潔いが、話を理解し雰囲気をキャッチする機微に聡いナイーブさにわたしは敬意を抱き続けている。

久美子さんの名刺には、「ロシア語・チェコ語・スロバキア語の会議通訳」と記されているけれど、彼女の仕事は実に多様だ。ゴルバチョフやプーチンら国家元首の放送通訳から格闘技のリング通訳までこなしている。大晦日恒例のRIZIN(ライジン)を五年間続けた。馴染みのない格闘の技の名も覚えておかなければならない。ある時には、リング上で起き上がれなくなった女子格闘家の選手を病院に連れて行ったりもした。

オーケストラやバレエ団、指揮者のアテンドも多く、私たちは彼女のおかげでロシアやチェコの指折りの演奏に浴している。一昨年などは、ワレリー・ゲルギエフの指揮を前から二列目の席で聴き、巨匠の底籠った唸りを耳にした。久美子さんは八十年代の終わり、代指揮者として来日した頃のゲルギエフの、日本のオケとの練習に一週間ほど付き合った。アメリカのエージェントに自己紹介をする為の手紙のチェックを頼まれたことがあり、その時、「いずれ世界にはばたくんだ」と言っていたそうで、野心は見事に実現したわけだ。

ソビエト連邦崩壊の翌九二年、当時の橋本龍太郎首相が旧ソ連邦の構成国に対して「シルクロード外交」なるものを打ち出した。久美子さんはJICAの下部機関に登録し、経済援助の事前調査団について中央アジア五カ国、コーカサスの三カ国、ウクライナ、モルドバを九五年から二〇〇三年に計六十回以上訪れている。都度、必ず団員の誰かが体調を壊すという、短期通過者には厳しい衛生状態の国々で、到着の夜、赤痢を発症してとんぼ返りすることになった人もいた。

伊川久美子
1992年、国賓として来日したチェコのハヴェル大統領(右から二人目)の随行通訳として

これまで携わってきた仕事のなかで、久美子さんがもっとも印象深かったものが、共産党政権を打破したチェコのビロード革命後の翌年五月に開催された「プラハ音楽祭1990」だったという。一九四八年の亡命後、四十二年間故国に戻ることのなかった、かつてのチェコフィルの首席指揮者、ラファエル・クーベリックがハヴェル大統領の招きに応じたのである。音楽祭のオープニングコンサートで、チェコフィルを含む三つの交響楽団が彼の指揮で、スメタナの「わが祖国」を演奏したのだった。NHKの衛星放送の生中継のために、モルダヴァ河の源流を辿る番組スタッフに同行した後、久美子さんは音楽祭でハヴェル大統領にインタビューをしている。チェコ国民の熱狂と感涙を誘った歴史的時間に立ち会った日々を語る彼女の言葉から三十年を経てなお鮮明な体験の波動が伝わってくるようだ。「わが祖国」はオーストリア帝国の支配下にあった中でスメタナが作曲した民族主義の高揚を促す旋律だから、盛り上がりは爆発と言えるものだったにちがいない。

伊川久美子
ラファエル・クーベリック指揮、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団によるスメタナ作曲の交響詩「わが祖国」のCD 「プラハ音楽祭1990年」のオープニング・コンサート・ライブ録音

ビロード革命を主導し、革命後のチェコ・スロバキア最初の大統領となったハヴェルは、劇作家であり逮捕投獄を潜り抜けてきた闘士だった。この一カ月に及ぶチェコ取材の間に、ハヴェル氏を紹介してくれたのが、大統領顧問となっていたチャスラフスカさん。東京とメキシコ、二度のオリンピックで金メダルを獲得した彼女もまた二千語宣言に署名したことで、迫害の日々を経てきていた。その年の三月に彼女が来日講演した際の同時通訳をしたことで意気投合し、プラハでの再会を喜んで、大統領執務室に案内されたのだ。お互い時間が取れない中、帰国前夜の夕食の約束も流れてしまった二三時過ぎ、チャスラフスカさんから、ホテルロビーにいるとの電話が部屋に入ったのだ。会議続きでご一緒できなくて申し訳なかったと詫び、お子さんにと手渡してくれたのが手編みの靴下だった。東京で当時六歳だった子供の話をしたのを覚えていてくれたのだ。強い眼差しのアスリート・闘士は優しい心情を併せ持つ友でもあった。

一九九二年の国賓としてのハヴェル訪日に際して、久美子さんは随行通訳を務めているが、チャスラフスカさんも訪日メンバーの一人だったので、再びの抱擁に力がこもった。
お母様は娘がハヴェル大統領の通訳を務めたことがとても誇らしく嬉しかったようで、大統領と握手する久美子さんの写真を部屋のチェストに立てていた。「チェコ人にチェコ人よりも話すスピードが早いと云われたんですって」とお母様から聞いたこともある。

チェコのピルゼン市の日本企業現地生産工場には九年間在職し、日本とチェコを往復しながら他の通訳をこなし続けた。このチェコ滞在中初頭に、日本で“スラブモスト通訳翻訳サービス”という会社を立ち上げている。仕事が増え、自分だけでは足りず、外注通訳者を使う必要が出てきためだ。通訳の経験が積まれてゆくと、頻繁に旧ソ連東欧出張が入るのでご両親がお孫さんの面倒をみることも多かった。久美子さん一家の住まいは、ほぼ代官山周辺、我が子たちと久美子さんのお子さんがよく遊んだのは、青葉台の西郷山公園だったが、付き添いはお父様だった。「ドラゴンボール」や「ドラえもん」を見に行った渋谷の映画館で偶然複数回出会ったこともある。家族ごとの行き来は年を隔て、お互いの子どもの成長に驚き合っていた。

伊川久美子
キルギスのマーケット 右端の帽子姿が伊川久美子さん

二〇一三年、久美子さんは、八十八歳になるお母様のパスポートを更新した。最初の年は自分の仕事の拠点、プラハを軸にしての旅だった。以来毎年、ベルリン在住の姉夫婦の住まいを起点に夏休みを楽しんだのだ。

エクリの本ができあがると、献本に伺うのだが、「いえいえ、買わせていただくわ」と聞かないのだ。思いだすのは、娘夫婦の作った本なのに、つど購入してくれたわたしの母は、かつてお土産のなぎなたを担いで、メキシコの知人を一人訪ねたことも。気骨と好奇心が漲っており、心情も揺るぎないのが二人の母だ。「雪中四友」のひとつ、春の光を宿す蝋梅、そして「非時香菓(ときじくのかぐの木の実)」たる橘、ともに二人を想起させるきりりと清しく咲く花だ。それぞれ介助し見送った娘たちは、今、母たちが冬の日をひき締め、馥郁と香りを放つ支えの大樹であったことに思い至り、敬愛をずっと心に留めおくだろう。久美子さんのお母様は二〇二一年の正月に亡くなられた。九十五歳であった。その時の自分にできることを、お互い際限なく行なってきた母娘の長い時の香りに、わたしたちはいつも聴き入っていたように思う。

「きんりん」Vol.14 2021年5月15日 発行

制作: エクリ
ロゴ: 伊藤弘二
写真提供: 伊川久美子・須山佐喜世
レイアウト: 須山悠里
文責: 須山佐喜世・須山実(エクリ)

この記事を書いた人:ecrit
エクリは、東京の編集出版事務所です。 平凡社コロナ・ブックスをはじめ、専門性の高いビジュアル・ブックから、展覧会図録まで幅広い編集と、年に一冊のペースで、詩画集を始めとするアートブックを刊行しています。 また、事務所内に併設された「木林文庫」では、古今東西の「木」にまつわる本が集められています。予約制の図書室として一般公開しています。