油面の金柑画廊へ、取り扱って頂いているエクリの書籍を届けた日だった。太田京子さんが主宰する画廊は目黒通りから油面地蔵通りに折れてすぐの処にある。ギャラリー内では油絵教室が開かれていて、男性二人と女性三人がテーブルまわりに座っていた。画家でアンティークショップを開いている方だと、指導の男性を紹介された。私は骨董屋を覗いたことは殆んどなかった。知人に誘われ、新潮流と称された骨董屋の何軒かに足を踏み入れたけれど、まったく惹かれるところがなかった。物にも、人にも、置き方にも。「こうもりや」という店の名に蝙蝠傘を中心に並べているのかと、吊られているとりどりの傘の像が浮かぶ。祐天寺駅と中目黒駅の間で駒沢通り沿いの店舗だと聞き、自宅から徒歩圏内の近隣ではあったけれど、アンティークショップへの道のりはすぐに縮まることはなかった。
太田さんの画廊はキンカン・パブリッシングの名で出版も手掛けている。二〇一五年に刊行された『holly journey』は出版と同時に同名の展示が開かれ、その時はじめて私は「Koumoriya」伊藤弘二さんの作品と考え方の一端を知った。掴みどころのない不思議な人であろうと思ったのだから、知ったというより分からなさの確認をしたということだ。そう、画廊の展示からも本のつくりからも、不思議なという呟きが洩れたのだ。展示には、そして本『holly journey』の頁には、地球儀や花器があり、一九五〇~六〇年代風の卓上スタンドの隣に旧字で印刷された山の絵葉書、独自のコードに則って伸び進む植物文様の布や、日々の制作で手にしているのであろう筆やパレットも並んでいる。それらすべてが等価なのである。
やがて展示そのものが旅をすることになる。学芸大学近隣の流浪堂とViridian、代官山のテキスタイルショップcocca、銀座の森岡書店、渋谷パルコの文具コーナーのデルフォニックス、鹿児島のGood day、そして再び出発点の流浪堂へ。物の魅力は置かれる場所、置き方によって大きく変わると考えていたけれど、holly journeyの一連の展示は流動、変成しながら、まったく異なる場所でも統一感を醸し出していた。
コウモリヤの店舗を訪ねたのは、金柑画廊の展示が終わってしばらくしてからだ。
「コウモリヤ」を骨董屋と括ってしまうことはできない。店舗であり、作品展示室であり、生活空間でもある(二〇一八年に生活の場を奥多摩に移している)。「コウモリヤ」は「蝙蝠傘」ではもちろんなく、「ミシンと蝙蝠傘」の実践であり、境界の無効という蝙蝠目の本領が息づいている。
柱時計や壁掛けの丸時計、東京タワーのミニチュア、温泉街などの土産物店に並んでいたというヌード灰皿など、時を経てきた古いものたちがモダンな香りをまとって共演している。すべてが配置されているのだ。無造作に積み上げられているようなものは一つもない。そして、地球儀と卓上ライター、あるいは風力計と碍子と植物の鉢台といった古道具コレクションを素材に構成されている一連の作品。意表を突く組み合わせから見えてくるのは、これとあれを結び合わせたアーティストの手ではなく、この物とあの物がお互いを選んで一つになった、揺るぎない合体、完璧な異種婚である。
しかし店内の主役はこれらのオブジェやアンティーク商品ではなく、店舗の片側の壁を領している縦横とも三メートルという三百号の油画作品で、この大作を伊藤さんは東京藝術大学大学院を出た後、構想に一年、制作に五年半をかけた。さらにこの絵と対になるものとして一メートル四方の九枚組の画があるそうだ。九枚は一枚づつであっても集合作品としても成り立つように描かれており、今のコウモリヤ店内にはその一枚が掲げられている。はじめて伺ったときは二枚だった。
伊藤さんの三百号の作品は濃緑色と深い紺を基調とし、そこに鮮やかな朱赤が走る抽象画で、色の坩堝のようだ。京都の染物師の仕事場で藍の大甕を覗いたときの蠢く混沌を思い出したのだが、コウモリヤの以前の住まい手が染物屋だったと聞き、その符合には大きく頷いてしまった。
絵が店舗の芯をなしているというのは、この絵が自身の周囲に置かれるアンティーク商品やオブジェを選ばせるからである。私たちが服や靴や小物を選び自分に「合わせ」るように、店主は絵に照らし合わせて展示を整える。おのずから、あるべきように収まっていく。
「そこで筆をおきたまえ」と絵が告げてきたのです、と伊藤さんは言う。描くことは絵の声を聴くことだった。とりわけ大作と対峙してきた五年半は描くことそのものを問い続ける時間でもあった。美術専攻科があった高校時代から浪人期間、大学そして大学院の間、絵画制作そのものに大きな疑問を抱くことはなかった。しかし学校を出て九〇年代アートシーンに生身で向き合ってみると、そこに同調納得できるものはなかった。描くこと、そしてアートを問い詰めていくための一枚の絵として、問いの結晶として描き上げた作品は「はじまりの絵」と名づけられた。
大作に取り組んでいたころ、知人とシェアしている制作場所は横浜の湘南台、住まいは藤沢だった。計画してきた店を開くにあたっては、アンティークショップと住まいを一つにできることが条件だった。駒沢通りを山手通りとの交差点に向かって下りはじめる、けこぼ坂上のバス停近くで長屋風の建物のシャッターに借家の張り紙があるのが目に入った。逆方向からの帰り道に駒沢通りを恵比寿方面から来て代官山を抜け中目黒を過ぎると、明らかに空気が変わるのをいつも感じていて、気になるエリアだった。簡単には上がりそうもないくらい古錆びたシャッターで、別な場所だったら目を留めなかっただろう。数日後の夕刻、付近を散策した。車窓から受け取っていた空気感は誤っていなかった。
即日、不動産屋に内見をさせてもらうと、案の定というべきか、内部はとても草臥れている。それは自分たちで手を入れればよいが、肝心なのは天井高だ。そもそも店舗探しは作品の展示場所探しだったのだ。引きはがして三メートルを確保できるのか、不動産屋の返答もいささか頼りなかったが、手打ちは成功だった。作品の縁は床面からも梁からも数センチづつ空いている。店のスペースを確保し、絵も無事収まったものの、生活空間の方は手掘りのトンネルづくりだった。しばらくは、妻の瑠理さんと土間の荷物の隙間に段ボールを敷いて寝なければならなかった。
開店当初つくられた二色刷りのロゴ入りカードにはこう書かれている。
「眼には見えない制度や形式に縛られずに現実と向き合いたい」という想いや視線が芸術だけに限られるものでなく、それ以外のカテゴリーにも同様に向けられ、すべてが共存へと向かう表現としてコウモリヤの空間を形づくっています。
マニフェストカードと呼ぶべきもので、アートの今を問う前線基地たらんとする旗が掲げられているのだ。店は生成し続ける伊藤さんの脳内地図の現前である。
『holly journey』に大きく掲載されている伊藤さん自身による仕事相関図を辿ってみる。店舗、プロダクト、テキスタイルのデザイン。映画やコマーシャルのための絵画、数年来手がけている絵本、そして絵画教室の講師。それぞれの仕事のための設計プロセスは、絵図と言葉による膨大な覚え書きノートとなっている。「構築」という語が伊藤さんには似つかわしいけれど、その語り口は飄々としたルネサンス人である。
家人と私は伊藤さんの仕事の追っかけになってしまい、街歩きの撮影スポットになっている富ヶ谷のオフィスや代官山のメガネ店、大門の上島珈琲店などの関わった店舗を見に行き、美術を担当した映画のDVDをレンタルした。三谷幸喜の「ステキな金縛り」のために描いた戦国時代の武者絵のモデルは主演の一人、西田敏行。この絵は傑作、思わずにやりとしてしまう。別の映画のために用意した四双の水墨の襖絵のためには「狩野派に入門してきました」と瑠理さんに言うくらい、東博に通い詰めて山水画の表現するものを研究したそうだ。
仕事が多岐にわたっているので、瑠理さんがWebにアーカイブをつくりはじめていて、そこで何本かのTVコマーシャルで使われた作品を見せていただいた。歌舞伎の役者絵や蒔絵の玉手箱、赤富士の掛け軸など、放映では気付きにくい仕事の細部は画面を止めて拡大してもらう。特に目を奪われたのは十七世紀頃を思わせるヨーロッパ庭園のような架空の街並みの風景画だった。相応しい部屋か回廊で原画と対面してみたい。
ある日の狩野派の画人は、別の週にはイタリア工房の絵描きになり替わり、別の季節には路上の壁画職人をしている。こうしたクイックターンをこともなげに繰り返す応変の手業はどこから湧いてくるのだろう。
「かなり長い間その仕事が苦痛でした」と振り返るのは大学生時代から描いていたという渋谷パルコの壁面画である。求められていたのは、当然のことながら、渡されたデザイン画を大きく描き写す「正確」な技だった。思うように描けるまでには、割り切れなさが蟠りやくすぶりが募っていた。無数の通行人の目も嫌だった。視線の気配で背中が重くなるのだった。制作プロセスを見せることがプロモーションの一環だったから、パルコ側の目論見は成功したのだ。
伊藤さんを映画の仕事に誘い入れたのは壁画制作を見上げていた美術監督だったという。作業現場でハンティングされたわけだ。
蓄積されていったのは、しかし不満や鬱屈のみではない。障壁画とヨーロッパ絵画と近代日本画の筆やグラフィカルなデザインを自在に使う全方位対応の技術の抽斗の獲得とともに、依頼仕事での個人の立ち位置を掴んだのだ。大文字の発見ではない。仕事を受ける絵師は役者と同じで、脚本をもらって自分を出す。描くのは、ディレクター某に指名された「手業」ではなく、伊藤弘二個人の目と手にほかならない、というシンプルな気づきだった。
なぜ「何でも」積極的に描くのかについて、伊藤さんは言う。「芸術に奉仕する絵画だけが高尚であるとか、名もなき制作は取るに足らないものだという、絵にまつわる通念や偏見を越えて、描く行為を解き放ちたいのです。描くこと、描くものに価値の高低はありません」。この思いは、多様な制作に充ちる熱量となって現われている。
数年かけて少しずつ手を入れ、二〇一八年から生活し始めたJR青梅線の鳩ノ巣駅近くのお宅を拝見させていただくことになった。夏には蛍が飛ぶという川を背に階段坂を上がりきると、鈴なりの柚子の樹を擁した一軒家に辿りつく。代官山にあった洋菓子店の扉を古物市で求め、塗り直して嵌めこんだという玄関ドア、軒下の碍子と配線の具合。この玄関周りを目にして、私たちは「ここもコウモリヤさんだ」と声を発してしまった。学芸大学駅(祐天寺駅)から二時間半電車に乗りながら、扉一つで隣の離れに移ったような気がしたのだ。
どの部屋にもコウモリヤコレクションの中心をなす時計や照明器具、椅子がいくつも置かれているのに陳列とは見えない。伊藤さんの仕事部屋は絵画教室にも使われる。絵画教室には、ほとんど絵を描く経験のなかった方たちが通ってきている。流浪堂(「きんりん」一号)の祥子さんもその一人で、「楽しく苦しい時間」だという。伊藤さんのカリキュラムは、ものを視ることに各自が意識的になるよう促すので、自分の眼で現実と対峙する姿勢が求められることになる。上手く描くことが目的ではないからだ。かつて芸大受験のための予備校講師だったころには思い至らなかったが、教えることもまた自己更新なのだ。
玄関や各部屋のカーテンにはテキスタイルデザインで手がけた布が使われている。「カーテンなのに見飽きないのは、これが絵画だからだと思います」と瑠理さん。染め職人が面白がって仕事をしてくれたという企画外れの作品だ。
「コウモリヤ」は屋号ではない。「アート」からカギ括弧を取り生活と一体化させる、芸術を生きるという命題は、市場価値に生活価値を対置させる静かな運動体となって息づき、伊藤さんがつくった物と空間、弘二さんと瑠理さんのいる場所のすべてに「コウモリヤ」が宿っている。