遠い花の記憶は月見草だ。
祖父母が一時期住んでいた郊外の小さな家。夕方、薄暗い廊下の突き当りにある小さな台所の窓が一面黄色に染まる。その黄色の花帯が見たくて、祖母の料理の手伝いをした気がする。夏休みの終わり頃の親と離れてのお泊り、祖父母のひっそりとした暮らしぶりと相まって、黄色い花の群生は、わたしにとって一抹の寂しさを纏う絵になって心に刻まれている。
気に入って長い間書棚に置いている写真がある。一九七〇年代に東京表参道で撮影したもので、家人の後ろに止められていた車のちょっととぼけたデザインも懐かしい。モノクロームだけれど色は鮮明に思い出せる。着ているワンピースはレモンイエロー、そして手にしている小さな花束は黄色のフリージアだ。自ずと遠い記憶の花の色を、彼女は選んだのだろうか。花屋で買い物をしたのはその日で二度目だった。初回は新宿紀伊國屋近くでスイトピーを買った。スイトピーもフリージアもそれまで名を知らなかったのだ。
私が育ったのは、彼岸の仏花と正月の飾り花くらいという、花を飾る習慣のない家だった。子どもの頃見た駅周辺の店のいくつか、パン屋、練り物屋、金物屋、焼き芋屋、糸屋、レコード屋、万年筆屋等はけっこう細部まで思い出せるのだが、花屋の覚えがまったくない。
二年半住んだ花の都のアパート近くには花屋があり、花市場も歩いて十分程だった。
彼の地でも花屋には縁遠かったが、「生花」という言葉がぴったりの花々が溢れ零れるウィンドウでは足を緩めることもあった。花を買ったのは二度の五月一日の鈴蘭の小束と大きなリラの花だけだ。しかし各国を旅した際の街角での写真を見直すと、家人が花を持っていることが多い。花持つ人といえば、ウフッツィ美術館の「ヴィーナスの誕生」の前で大振りの白百合を肩に担ぐ女性に遭遇した。当時はボッティチェリの前も空いていて、その光景自体がルネサンス絵画をなしていた。
パリでも一昨年初めて訪れたモスクワでも、花束を抱える男性をよく見かけた。恋人か家族かあるいは自分のコーナーのためにか、皆一様に笑みをたたえていて、誰もが足早だった。
今は月に二度くらいは花を求めるのだが、近隣ではここでという行きつけの店がなかった。友人に薦められて隣駅にも行ってみたけれど期待は外れた。一番の問題は花持ちである。学芸大学にも持ちの良い店があるとはいえ、私たちには文字通り高(値)の花だ。周辺で買いくる度に、「また早々と萎れたね」という嘆息を繰り返すばかりだった。
「花すけ」を紹介されたのは、二〇一九年秋まで、学芸大学駅前にあった喫茶店「あんぐいゆ」(「きんりん」2号)だった。カウンター席の端でコーヒーを飲んでいた男性に、ママの良江さんが「この間の花、まだこんなに元気よ」とガラス器に挿してある花に触れたのだった。「まだ元気なのよ」の一言に耳が立った。カウンター越しに、良江さんのスマホで件の花屋さんのインスタグラムを見せてもらった。
たまに散歩で巡る林試の森公園に近い目黒通り沿いに、その人、高橋健治郎さんのお店があるという。日を置かず、「花すけ」を訪ねた。間口はとても狭い。店内には色が溢れていた。店の空間全体でひとつのグラン・ブーケである。後に、高橋さんが小中校時代、美術部に属していたと聞いた。色には音がある。花棚には無音の交響が満ちていて、背後の目黒通りを走る車の音はすっかり遠のいていた。
まさに、「みつけたぞ」であった。
高橋さんのお祖母さんは戦後すぐに、駄菓子屋さんをはじめている。曾祖父が目黒区油面の地蔵通りに開いていた郵便局のあとが店舗となった。その後、近所の花屋さんがいきなり消えてしまったのを機に花屋に転じたのだ。目黒通りから地蔵通り商店街に入ってすぐにあった銭湯の並びになる。「花すけ」の前身、「吉永生花店」の誕生であった。吉永は高橋さんの母方の姓である。
商店街の出口近くで今も営業している大塚湯とともに、戦後しばらくは通りに二軒の風呂屋があったという。銭湯帰りに花を求める人は少なくなかったと、高橋さんから伺う。湯上りに花とは、花を飾らず内湯だった私には初めて知る話だ。
郵便局は閉じてもポストは元のまま家の前にあり、その陰からたびたび店内を伺う男がいた。祖父母には三人の娘があり、女中心の所帯で皆いささか不安に感じていたところ、ある日、意を決したように店に入ってきた男が名乗りを上げ、住み込みで働かせてもらえまいかと頼んだのだ。男はリヤカーによる花の引き売りで、品川あたりから一帯の銭湯を目当てに遠征してきていたのだった。後年、高橋さんの父となる人である。生花店の長女が高橋さんの母となった。ドラマのようである。
油面地蔵通りにあった「吉永生花店」(昭和40年代)
高橋さんは小学生のころから配達の手伝いをしていた。毎月一日と十五日は神棚に榊を備える習慣がまだ色濃くあったので、晦日と十四日は定期便だった。小遣いを貰えることもあり面倒だとは感じなかったそうだ。時節や行事によって食事の間もないくらい忙しい時があっても、客との応対を見聞きし、人入りが途絶えると茶の間で横になってテレビを眺める様子は実にのどかで、気楽とまでは考えないが、いずれは自分もと漠然と見通していた。姉の後を追うかたちで、世田谷区深沢にある都立園芸高校に進んだ。園芸科と造園科があり、花を知るには最適である。専門学校なのに、姉のほうははなから花屋になる積りはなかったが。既定路線で、「先ずは外の飯を喰ってこい」と母に言われ卒業後の就職先は花屋であった。第一・第二希望の花店からは弾かれた。花屋の師弟は慣れたところで実家を継ぐために辞めてしまうからだという。入店したのは池袋のデパートに入る花屋だった。高橋さんの他にも福岡の花店からの女性がいた。社員約二十名は旧態の徹底した上下関係に組み込まれ、当初は花にも満足に触れない下働きの日々。アレンジメント等の技術は、手を取ってではなく見て盗めであった。生け花は通いの師匠からの出げいこで型を伝授された。
勤務した五年半はバブル期で花もよく売れた。デパートは贈答用が主流なので高額に輪をかけた。場所柄毎月末にはキャバクラの密集する辻に花満載の軽トラックを止めて花束をつくる。客たちが人気ホステスさんに捧げるためと店内装飾で、これがバンバン売れたのだという。総じて楽しい年月だったけれど、一九九三年に父が倒れた。なんとか店には復帰し父母で日々をこなしていたが花屋は重労働である。両親を手伝うため高橋さんは退職を決め、それから七年半、地蔵通りの店に立った。池袋のデパートと目黒油面では仕入れる花がまったく異なる。お客も大半は顔見知りだ。東横線都立大学駅の近くにあった花市場は一九八九年に統合され現在の大田市場に移転していて、規模が大きくなっている。両親のスタイルをなぞりつつ、花選びにはデパートの経験を活かした。
二〇〇〇年、故あって店と土地が人手に渡る。年表に記された一行の出来事のように、高橋さんは淡々と話したけれど、激震の日々であったろう。もちろん本意ではないけれど、苦い言葉はすべて呑み込んだのだ。事情を知る元の職場に否やはなく、再び池袋で約十五年にわたって勤めを続けた。そして友からの心強い声掛けもあり、店舗の再生を目指すことになる。元の場所に近い目黒通り沿いに空き店舗があり、裏手に駐車場も確保できた。新店舗は、亡くなった父の名「助治」から一字をもらい、「花すけ」とした。オープンは二〇一六年二月十四日だったから、五年目に入ったところだ。
『花屋になりたくなかった花屋です』という本があったけれど、高橋さんは花屋に生まれ、まっすぐに花屋になったのだ。過去を謙虚に背負い、強く今を肯定する。大きな笑顔と声、まさに向日葵のごとくである。
花も世につれで、数年前から多肉植物が流行り始め、ドライフラワーも人気だ。花の種類も色も多様化しているし、花市場に来る人たちにも変化が出ている。ネット販売の専門も増えつつある。「デザイナーズ系」の店内は一見アンティークショップかと見紛うくすんだ色合いと商品レイアウトだ。
花すけの周辺はマンションと昔からの一軒家が入り混じる地帯で購買層は幅広い。そして目黒通りは十五年位前からインテリア通りと呼ばれるほど、インテリアショップや骨董家具店が増えたこともあって、週末は客の顔ぶれも変わるのである。ご両親のように、町の花屋さんでありたいとの言葉通り、花すけは誰もが気後れせずに覗ける店を体現しつつ、「新進のフラワーデザイナーさんたちがどんな花を仕入れるのか、一応横目でチェックしていますよ」と屈託がない。
淡い色が囁くように伸びるスイトピー、野趣に富んだコスモスを好きになったのは、十代の長い入院の頃からだろうか。病室は見舞いの花で溢れるが、夜になると全ての病室から看護士さんが花瓶を廊下に出すのだ。夜の廊下は色とりどりの花の行列。それは華やかさとは裏腹の寂しい時間だった。退院して家で療養するわたしの枕元には、父が種から鉢で育てたコスモスやスイトピーがあった。だから、万歳をしたいくらい嬉しく驚いたのは、高橋さんに「好きな花はコスモスとスイトピー」と漏らしたときの、「僕もそうです」の一言だった。自分の好きな花はつい多めに仕入れてしまうという花すけの花棚に一目惚れしてしまったのにも訳があったのだ。気に入りの花屋さんのことを「店にいるだけで気持ちが満たされる」と書いていた方があったけれど、わたしも同じである。
そして私たちが一番気にかけた花持ちだが、高橋さんによれば、花持ちは花の良し悪しや新鮮さだけではなく、気温に大いに左右されるから仕入は週間天気予報も気に掛けるのだという。「水あげと毎日の水替えを欠かさないことに尽きますよ」とおっしゃるが、町の花屋がその仕事を怠るとは思えないので、花持ちで抜きんでる花すけの生花は目利きに選ばれているからに違いない。花を選ぶというより、花に選ばれているのだろう。花に選ばれた店主の手から選ばれた花が、私たちの空間でひとときを生きる。
二〇一九年七月七日。私を除いた七人の三家族合同の、三ヶ月をまたいだ誕生日と慶賀を併せての会を開いたとき、七つの花束を高橋さんにお願いした(特に意図したわけではなかったが七並びになった)。うまく日程があって、市場での花選びから始めてもらえた。面白く不思議だったのは、七つの小束を一まとめに抱えもつと、セブンピースがワンピースとなって輝いて見えることだった。
後日、皆が感激したことを伝えると、「買ってくださる方はもちろん、贈られた人にも喜んでもらえてこそ」と破顔した。そして二〇二〇年の私の誕生日には、その中の二人から、花すけで選んできたという花をもらった。二種の黄色の花、ミモザとフリージアだった。
その翌々月の三月、店の外置きの棚で粒立ちの見事な黄色の花を見つけた。ブルターニュのカルナック巨石群の足元にも群生していた花、エニシダである。仏名はジュネ。英仏百年戦争の一方の雄、プタンタジネット家が紋章にしたと云われる花だ。ラテン語のプランタ・ゲニスタ(planta genista・エニシダの枝)の家紋が家名になったのである。石塊に這い広がる花は荒々しさに満ちていたが、棚の黄花は匂い優しい。このエニシダもまた、花すけ好みだろうか。
二〇二〇年の三月は花屋さんにとって残酷な月になってしまった。卒業式、歓送迎会が集中する三月は一年のなかで生花店がもっとも多忙なとき、すなわち大いなる稼ぎ時である。例の笑顔はかすれ気味で、声も心なしかトーンが落ちている。「市場も活気がなくて」と。
それでも、五月のある日、店の中に二人連れが一組いて、私たちは外で待つ。そして今度は、私たちが小さな黄バラを買って店を出ると、新しい方が会釈をして入っていった。立ち去る私たちの背後から、高橋さんの明るい声が聞こえた。
制作 :エクリ
ロゴ :伊藤弘二
写真 :大野貴之
レイアウト:須山悠里
文責 :須山実・須山佐喜世(エクリ)