この記事でわかること
碑文谷での開業
「武漢なんだよ」
この二年余り、緊張と共に発せられていた地名が出てきたので驚いた。藤田医院の院長、実彦先生は、一九四一年武漢の生まれだという。武漢には実彦先生の祖父が、明治政府の依頼で彼の地に熱帯学研究所の所長として赴任していたのである。そこでは蒋介石や林彪ら要人と会食したこともあったそうだ。戦後、祖父と父酒造光(みきみつ)、実彦一家は、中国大陸から無事引き揚げることができた。父は一時、小豆島で医療に携わった後、宇都宮を経て目黒区に落ち着く。事前に東京の伯父に開業する土地を購入してもらっていたのである。一九四八年に酒造光先生が開業した碑文谷の医院は、その後四十年間地域医療に徹した。彼が透析を受けなければならなくなって、息子の実彦先生が後を継ぐことになった。
私たちが結婚し、子育てを終えるまで住み、今は次男一家が生活している碑文谷の家は、藤田医院のワンブロック隣である。私の祖父の時から次男の一人娘までの五世代が、実彦先生のお父様にはじまって、現在の三代目和彦先生に診てもらっていることになる。私の祖父も父も頑健な方ではなかったから、藤田医院の開業は有難かったにちがいない。
引き揚げ後、実彦先生は鷹番小学校に通ったので、私の先輩ということになるが、中学は地区に原則割り当てられている目黒区立第六中学校(当時)には進まず、駒沢公園に近い第十中学に通うことになった。六中は「かなり荒れている」とみた父の判断である。「荒れていたのは」私の頃になっても変わらず、中学校間の乱闘事件もあった。
小学校の低学年の頃の私は、重々しい風貌の酒造光先生が往診で持参する黒い革鞄が恐ろしかった。駅近くにあった映画館の夜間上映で、父母が先生ご夫妻に何度か会っていると聞いても、結びつかないなと感じていた。一九五〇~六〇年頃の学芸大学には覚えているかぎり二つの映画館があった。洋画の上映館だった西口のユニオン座と東映映画主体の日本映画館、目黒文化劇場である。ユニオン座では、夜八時頃から最終上映が催されていた。当時の八時は今なら十時くらいの印象だろうか。
実彦先生が子どもの頃、上映時間を見に走らされたと、この度のインタビューで知り、何だか嬉しくなってしまった。「父は昼の休診時間に歌舞伎座の立ち見に往復する人だったからね」、とも話された。映画、コンサート、美術館へは貪欲に通うようにと父に云われたが、碁や将棋、麻雀は絶対に手を出すなと忠告されたそうだ。やっている最中に患者さんが来た時、「表情に出る」というのである。診察の大半は対面して話を聞くことにあるので、勝負事の汚れや疲れを晒してはならないのだろう。かつての麻雀体験者としては大いに頷けるところだ。
幼少期はひ弱だった私も、中学生になる頃は体質が変わったのか、医院への往復は間遠になった。久しぶりに酒造光先生に診察を受けたのは高校入学直後だった。入部したての運動部の練習で両脚が激しい筋肉痛に見舞われてしまったのだ。「おっ、実君、見ないうちに逞しくなったな」と破顔されたが、こちらは階段の昇り降りもままならずで、微笑みの欠片も浮かばなかった。それでもこの日はじめて、医院の診察室が当時の我が家の洋間の雰囲気によく似ていることに気づいた。玄関前に二本の棕櫚の木があるのも同じである。「昭和」の匂いだったのだろうか。筋肉痛に対しては「アリナミンを三日間ね」だった。
世代を越えて
年齢に応じて、そして家の事情で医院通いの条件は変化する。我が家の子育て期の次の波は、父母義父母の高齢化であった。医院には赤ちゃんを抱いたお母さんから小学生、そしてお年寄りと、あらゆる年齢が交じり合う。
実彦先生、そしてご子息の和彦先生とも、丁寧に話を聞いてくださる先生と地域ではもっぱらの評判だが、それは酒造光先生から相伝の家訓とも云うべきもので、患者さんの思いを想像しながら言葉を尽くすからだろう。予約時間を過ぎても呼ばれずに、待合室の時計とにらめっこをする経験を皆さんがされるのだが、自分が診察室に入ると話が弾んでしまうのである。取りとめない日常会話の類だけれど、安心や信頼の土壌はそのように耕されていくものだ。
我が家同様、世代を繋いで診てもらっている方は少なくないだろう。年に一度の検診を院内で済ますことができるのも有難いことだ。胸部レントゲンや心電図を担当する専門のスタッフさんがおられるからで、希望すれば胃カメラも可能だ。
身近にいつでも駆け込める医院があることの有難さは、子育て時代に身に染みていたけれど、とりわけこの三年間のコロナ禍では心強かった。三代目の和彦先生が発熱外来を設けておられるからで、三年前、私が38度代の熱と喉の痛みがあって受診した際、直ぐにPCR検査を手配してくださり、幸い結果は陰性だったが、この時の口調もいつも通りさり気なく、「PCRしてみよーか」と尋ねられたのだった。
医院として発熱外来を引き受けると、経過観察の電話連絡にかなりの時間を要するそうで、陽性者が増加していた間は、毎晩遅くなったと話された。更にワクチン接種会場に赴いての割り当てもあり、日々の診療に加えてのことだから、医療者たちは肉体的にも精神的にも過大なストレスを負ってきたことだろう。
「街医者の第一の仕事は」と実彦先生は話す、「いち早く病気を見つけることです」と。院内に様々な分野のスタッフを擁しているのは、きめ細かな網を広げ、複眼を駆使して病の兆候を察知するためである。素早く的確な診断をして、必要とあればより精度の高い検査ができる専門病院を紹介する。そのためのネットワークも、医師や医院との長く幅広い付き合いの賜物だろう。
五年前、家人が突然のめまいと吐き気に襲われた時がそうだった。藤田医院に連絡すると、動けそうならすぐに来院するように言われ、現在の私たちの鷹番の住まいから徒歩で十分程の距離をタクシーで乗り付けた。実彦先生が玄関前に待機しておられ、二言三言家人に問診すると、運転手に行先の病院名を告げ、担当の先生に伝えておくからこのまま行きなさいと送り出させた。即入院となったけれど一週間で家に戻ることができた。心強かった。
息子たちに、医院で記憶に残っていることを尋ねてみると、長男は第一と第二、二つの診察室が並んでいるのが不思議だったと言い、次男は実彦先生と和彦先生が同じ笑顔で「どうしたの~? どうしました~?」と聞かれたなと笑う。
病気と共に
「進学、就職、結婚、出産は難しいかな〜?」と医者に危ぶまれたすべてをクリアしてしまった、今やほとんど病気と無縁と言ってよいわたしにとって、かつてお医者様は日夜伴走してくれる絶対的な存在だった。難病を発症したわたしを担当してくれた主治医に、父母は全幅の信頼を置いていた。入院中は毎朝微笑みながら外来前に顔を見せてくれ、自宅療養中も、総合病院への出勤前にしばしば往診してくれた。不安と葛藤の渦の中にいる患者にとって、その日は魚の動きで川底の茶色く濁った水が澄んでゆくような思いを味わった。そして全快した時に、自らの医術の誇示はなく、「この病気が治るとは、奇跡ですね」と語られたのだった。その後もずっと交流が続いた。病室で先生と出会った友人たちの心にも、穏やかな良き医師として刻まれていたことを知っている。
のちに母が肺の大手術を受けた時の医師が、術前術後に心細さに胸塞がれた母の手を握って、にこやかに、確信に裏づけられた予後の希望の言葉を語ってくれたときの姿は、雨風を凌ぐ大樹のようだった。
小学生以降、スポーツ少年として元気に通学した三人の息子たちは、全員が都の喘息医療費助成制度を受けていたくらい頻繁に発作を起こして藤田医院に駆け込み、熱やひきつけ、怪我で気の休まる間もない幼児期だった。医院は白亜の小ぢんまりとした円筒形の建物で、待合室も隅々まで円形、曲線で設えられている。診察室に入り、藤田先生の「どうしました~?」と顔を覗き込んで発される最初の一言と笑顔は、すっと患者の側に立つ声かけであり、どんなときでも包み込んでくれる祖父母の大きな手のようだった。私の患者史のなかで、かけがえのない、三つ目の宝物になっている。
かつての病気が自己免疫疾患だったせいか、膠原病や、甲状腺疾患などに後年悩まされたわたしは、後に大病院に通ったのだが、終始、カルテが記録されているパソコン画面を見つめていた担当医の横顔しか覚えていない。初診で、「完全治癒は難しいですね」と言われたけれど、数年後、「まあ、もう来院は何かあった時でいいでしょう」と無罪放免(放逐)となったのだった。科学的な自信に満ちた断言の、「奇跡」、「希望」、「どうしました~?」となんと対照的なことだろう。
未知の探査
実彦先生は三人兄弟の末っ子で、上のお二人もお医者様、長女が小児科、長男は整形外科医だそうである。いつも不思議に思うのだが、医者の家系というものが強くありそうに見える。私の母方も同じであり、私が生まれたときには他界していたが、父親が医者で、九人兄弟の中で二人の叔父が医者となり、その子どもも専門は異なるが数人が医者となっている。環境も大きいだろうが、ドクター因子の如きものが脈々と伝わっていくのではなかろうか。
実彦先生はどうだったのだろう。一家全員が医師だから、自分もそうなるのかなと考えつつ、興味を惹かれていたのは海洋生物で、ハワイ大学の海洋学を専攻することも頭の片隅にあったそうだ。「生命は海からだからね」なのである。奥様の従弟さんが西表島のマングローブ研究の第一人者なのだと話されたとき、尊敬の中に羨望も混じっているように見えたのは捉えられた海の魅惑ゆえだろう。
日本大学医学部の講師を二年程勤め、一九八一年に藤田医院を継承してからも、生命の発生の神秘を追い求める磁針はその後も揺らぐことなく、肝炎やNK(ナチュラル・キラー)細胞の研究という先端の、つまり未知と接する領域の探査を続けているのだ。抗がん剤に有効な成分が黒サンゴで見つかるという、海由来の発見には喜びも大きい。インタビューの中で伺った免疫に関する話は、浅学の私たちにも分かりやすく、さながらマイケル・サンデル教授の白熱教室のようだった。最先端研究のフィールドに吹く風は、サイエンスとフィクションのあわいを溶かし込み、聞くものをわくわくさせるのだ。街医者としての日々の言葉と、研究者の直感と眼力、遠く離れているように思える二つの力点は授受の大きな掌となっている。
学芸大学駅の藤田医院
癌の免疫療法の第一線の研究者として、そして藤田医院とニューシティ大崎クリニック、二か所の医院の臨床医として多忙を極める日々でも、実彦先生は生粋のエピキュリアンを貫いて、テニスに、マリンとウインタースポーツにと境界がない。五種競技にも挑みたかったというから、オールランドプレーヤーだ。お顔はいつもつややかな健康色である。和彦先生もテニスにのめり込んでいて、高校生のとき駒沢のテニスクラブで、来日した全仏オープンの最年少チャンピオン、マイケル・チャンの相手を務めたという。世界を制覇したサーブはどんな手ごたえだったのだろう。
実彦先生はスポーツばかりでなく、楽器も奏される。土地購入の労を取ってくれた伯父は武蔵野音大でバイオリンを教えていた方で、後年、実彦先生がクラリネットを吹くようになる下地になっているのかもしれない。学芸大学駅の東口商店街にある「珈琲美学」というジャズライブ喫茶では「スタンダードジャズの夕べ」を主催している。その夕べにも顔を出すという先生にクラリネットを教えたのは、往診で知り合った九六歳を超える、かつて在日米軍向けの放送FENで演奏していたという方である。往年の奏者はしっかりと肺活量を保っていたという。往診先で楽器の師弟関係が出来あがってしまったわけで、粋な話である。
駅の真向かいとも言える場所にある、街の中華料理屋「二葉」は、TV放送で紹介されて以来、行列が絶えない。
「鷹番小の同級生だったんだよ、**ちゃんが」と実彦先生が話されたのは、二葉のレジ横に立つ女性のことである。「この夏、二葉でクラス会を開く予定で、三十人は集まるかな」とおっしゃっていたが、コロナが収束しきらず中止になったそうだ。皆さん、さぞ残念だったにちがいない。
流入人口が激増している目黒区にあって、七十年近く前の地元の小学校の同級生が集う話は心温まるし、稀有な時間だ。来年は是非、実現を。
目黒区碑文谷6‐4‐10
「きんりん」Vol.19 2022年10月25日 発行
制作 :エクリ
ロゴ :伊藤弘二
写真 :大野貴之
撮影協力 :
レイアウト:須山悠里
文責 :須山実