学芸大学をもっと知る、カルチャーメディア

フリーペーパー「きんりん」WEB版 by ecrit

きんりんバックナンバー

biji

学芸大学 きんりん vol.20

きんりん biji

「ぼくの体はbijiでできている」と言ったのは、「きんりん」十号で紹介した「花すけ」の高橋健治郎さんである。
花屋さんたるもの、冬の凍える水にも、夏の頻繁な水替えにも負けぬ丈夫な体をもって、いつも大らかに笑っていなければならない。この彼をつくる、美味しくて栄養バランスも申し分なく、飽きがこず値段もリーズナブルな理想の食堂がbijiというわけだ。

bijiのふたり

アジアン・エスニック食堂のbijiが学芸大学駅にオープンしたのは二十年程前の二〇〇二年だった。「きんりん」一号で紹介した古書店流浪堂と同年の出発である。bijiは学芸大学の東口商店街を直進し、商店街の左右に一般住宅が混じりはじめる所にある。同じ通りに並ぶ数軒の店舗も派手な看板を出していないので喧噪が一気に引き、風景がフェードアウトするように思える空間だ。

学芸大学駅のbiji外観
biji鷹番店エントランス

いわゆるアジアンフードが本格的に流行し始めたのが一九八〇年代後半、そしてブームが落ち着き、エスニック料理ファンがそれぞれの好みに合わせて店を選ぶようになった頃の人気店のひとつ「テテス」で、bijiを経営する東(ひがし)美貴さんと近松亜希子さんの二人の女性は出会っている。

お二人とも飲食一直線ではなかった。東さんは大学では日本語教師を目指していた。資格取得のため一年延ばした在学中に飲食店のアルバイトをしているうち、どんな潮目に乗ったのかその業界に惹かれ、フードコーディネーター養成の学校に入り直したのだ。やがて、あるクッキングスクールのアシスタントをするようになり、そのときの賄いで出会ったタイ料理がはじめの一歩となった。

一方、近松さんは実家が昼間は喫茶店、夜はスナックになる飲食関連ではあったけれど、自身は美術大学が志望で美大の予備校に通ったりもした。飲食店だけはやりたくないと思っていたのに、アパレル会社で飲食部門に配属になり、カフェレストランのベトナム料理担当になってからは一本道である。

船出

テテスで近松さんはキッチン担当で四年間、東さんはフロアで三年間働いており、二人は勤務後の親しい飲み仲間だった。飲食勤務の多くの人がそうであるように、彼女たちもいつかは自分の店を持ちたいと思っていた。気持ちの熟成には、いつだって適量オーバーのアルコールがてき面だ。夢と現実に橋を架ける。

いきなり風が変わって船出を促されるということが、人には稀に訪れる。知人が関わっていた学芸大学駅の地中海料理の店が店主の都合で急に閉じることになり、まだ次の入居者は決まっていないという話が入ったのだ。それまでも目ぼしい店舗情報があると足を運んでいて、学芸大学駅もいくつかの候補地の一つだったので、街の雰囲気や住人の構成、そしてその店にやってくるお客の様子は概ね掴んでいる。オフィスが少ない住宅街は通常外食率が低いのだが、駅周辺には一通りの外食チェーン店が並び店舗数もかなり多い。アジアンフード店はなかった。お二人の構想では店開きは少し先に置いていたけれど、躊躇なく手を挙げた。大家さんとの交渉も有難い条件で収まった。一瞬の空白を掴んだことになる。

居抜きで入ったから、元の店だと思い込んで席に着いた客が、「あれ、ここは」と気づくこともあったという。タイ、ベトナム、インドネシアを料理リサーチのために何度か訪れた時、いつの日にかと、買い集めてあった食器がすぐに役立つことになった。

店名のbijiとは、インドネシア語で「種」の意だ。店名を決めるにあたって、お二人は短くて覚えやすく、ロゴにしたら可愛いものという条件で辞書を繰った。二人が勤めていた店の名「テテス」の「滴」を意味するというインドネシア語がとても気に入っていたからである。木々をイメージしたともいうbijiのロゴは確かに可愛らしい。

オープン三年後の二〇〇五年には、お客さんからの紹介もあり、目黒本町に仕込み場を借りて、以前からやってみたかったというキッチンカーをはじめている。オーガニック弁当は少々フライング気味だったかなと振り返る。しかし、ボリュームがあってヘルシーな品目がとりわけ若い男女の人気を集めたのだろう、青山、神楽坂、中目黒、どの場所でもよく捌けた。

こうして店を拠点にしながらも、ケータリングやデリバリー、そしてテイクアウト、当初からの動的な要素を活用してきた。従来の四輪ワークをボリュームアップしてロケ弁、仕出し弁当の受注量も増えていった。この東奔西走のデリバリーの途中で失態も出来させてきた。

配達先へのルートを完全に失った末に一方通行路を逆走した東さんは、パトカーに押さえられてしまった。「お弁当が間に合わない」と泣きつき、違反切符を切ったパトカーに先導されて、程よきスピードで仕事を全うした。

またある時は、船上での結婚パーティのケータリングで、埠頭に車を止めて注文品を運び入れてセットを終えて戻ろうとすると、船はいつの間にか寄港している場所から遠く離れてしまっていて、二人は否応なく次の接岸地点まで海を見ていた。こぼしただのひっくり返しただのと、この手の話はまだまだまだまだ出てくるらしい。あれやこれやの躓きもまた、二人には小さなアクセサリーにさえ見えてくる。

流入人口が多く飲食店の需要は堅調であっても、出入り盛衰がかなり頻繁な町にあって、bijiが二十年継続してきたのは、つまるところ、オーナー二人の人柄と味と店の形態だろう。

彼女たちは三つの顔を持っている。厨房に立つ二人は当然クールだ。昼間に街で行き会うとき、東さんはあっけらかんと満面笑顔、近松さんはアルカイックスマイルでちょいと顎を引く。お二人の姿はとてもよく似ている。そっくりなのではなく、年子の姉妹のようだ。

もう一つはアルコールに染まった顔だ。閉店後のルーティンで、下馬から鷹番に戻ってきた東さんと、時には遅番のアルバイトを交えてボトルを囲む。はじめは目を据えて、グラスと喧嘩をしているみたいに呑む。兎にも角にも、今日という日を脱ぎ捨ててしまうのだというふうだ。飲み方に反して、間もなくこの上なく穏やかな酔人の顔が頬からひろがってくる。酒精の巫女がいるならば、このような「かんばせ」ではなかろうか。

biji 近松亜希子さんと東美貴さん
biji下馬店にて、近松亜希子さん(左)と東美貴さん(右)

bijiのケータリング

二〇一九年暮れ以降、パンデミックの猛威で飲食業界が時短や休業を余儀なくされてきた中、二〇二〇年からは、駅の西口商店街を抜け、駒沢通りを越えた世田谷区の下馬に、テイクアウト弁当専門のbijiをオープンさせている。随分と思い切ったものだが、緊急事態宣言直前の弁当屋には確実な需要があった。以後は主に東さんが下馬店、近松さんが鷹番を切り盛りしている。

飲食店では通常営業自粛の中での生き残り戦略で、テイクアウトや弁当宅配を展開する店が増え、学芸大学付近でも通りを走る二輪の三分の一が料理宅配になる程の状態だった。bijiは元からテイクアウトできる総菜や弁当、ケータリングが経営の柱の一つだったのだし、配達も外注ではなく自らである。極端な路線変更や縮小を強いられることがなかったのは、小さくない幸運だったろう。

注文先に突然陽性者が出て、当日になってかなりの弁当がキャンセルになってしまうこともあった。実費が保証されるケースでも廃棄は辛いものだ。すべて自分たちの手づくりなのだ。無個性なコンベア仕事ではない。

この数年、bijiも厳しい日々だったはずだが、他の多くの店と比べれば痛手は大きくなかったように見える、見えてしまう。そんなことはなかったのだと聞き知ってはいるけれど、深刻な影が微塵も感じられない。それはお二人の向日性、失礼を顧みずに言えば、何が起ころうとどこ吹く風といった様子がそう思わせるのかもしれない。逆風を突っ切るのではなく風と踊っていた、“just walking in the wind”である。

biji下馬店厨房
biji下馬店厨房

ウィルスが未だに居座り続けていた昨二〇二二年、お客の有志が二十周年のお祝いの会を催してくれたのだ。会場となった代官山のライブハウス「晴れたら空に豆まいて」では、bijiファンが二人の二十年を称えて、ある歌を熱唱した。披露してくれたのは、RCサクセッションの「いい事ばかりはありゃしない」のもじりで、即席バンドの名乗りはフィッシュマンズならぬティッシュマンズ。「金が欲しくて働いて眠るだけ」のリフレインはbijiだから笑いを誘うけれど、我がエクリだったらリアルすぎて顔がひきつる。

一夜のラディカル・ヒステリー・ツアーでは、ハウスに置かれていた酒瓶のボトルをすべて空けてしまうという、ハウス初の快挙も語り草である。当然主賓の二人も大いに貢献したのだろう。

二〇二三年の正月休み、二人は食通トラベラーの友人と共に、数年ぶりで彼の地を旅している。気に入った料理があればレシピを聞けなくても舌と目で記憶し、戻ってすぐに国内向けにアレンジしてみる。それが仕事を含んだ息抜きの旅行スタイルだが、「今回はなぜか、どれも受けなかったなぁ」と苦笑する。「久しぶりで舞い上がってしまって、食欲が学習欲を吞み込んだね」。

憧憬

長く続けるうちに、お客さんの方もソロから二人となり、やがて家族となって通ってくれるという幸せなプロセスを共有したりもする。私の家族もそれぞれ通ってきたようだ。近くに住んでいた息子は、今では六歳の娘と親子連れである。なかでは私が一番新参者だ。

bijiに入ると、素朴な白壁と黒いテーブルクロスの空間にアジアンテイストの独特の香りが漂う。その度に母と通った日を思い出す。わたしの母は二十歳ころ、台湾へ出奔したことがある。家の事情で進学が叶わぬ不如意だったと聞いた。高雄の友達が受け入れてくれ当地で何年かを過ごした。

一度その友達にわたしを会わせたいと、ある夏の日にその友を二人で訪ねたことがある。今も目に浮かぶのは、田圃の彼方、稲の緑と田圃の水に反射して光る夕焼けを背に、麦わら帽子をかぶって、棒を振りながらのんびりと歩く牛飼いの少年のシルエットだ。

節約の時代を生きた母の日記には、家計簿の狭い余白に、小さな字でぎっしり出来事が書かれているが、食べて忘れがたいものがスケッチされて色鉛筆で彩色されているものがある。いくつかの丸い皿はアジアンフードのようだ。「気持ちのこもった味ね」といつも母が言ったbijiの皿は、盛り付けの色合いも、食材のミックス具合も、いつまでも箸をつけ難いくらい綺麗だ。絵を描くのが好きだった母は、絵筆やナイフをキャンバスに置く前に、微妙な色になるまで、幾つもの絵の具を混ぜるのが楽しいとよく言っていた。きっとニュアンスが多彩な絵のようなbijiの皿の佇まいに見惚れて、スケッチに残したのだろう。

何よりも、何度かわたしを誘って訪ねたbijiの味は、大切な、青春の高雄の風景と時間を思い出させてくれていたのかもしれない気がする。

biji鷹番店内
biji鷹番店内

「行列ができる」を自ら売り文句にする店もあるが、bijiは人気店にもかかわらず下馬店の昼頃以外、行列ができない。それも長く待つわけではない。「お客さんの方から事前に問い合わせがあったり予約を入れてくれるので」と近松さんは言う。私たちも店で食べるつもりでも満席ならテイクアウトに切り替える。ガパオ、ビビンバ、カオマンガイにキーマカレー、お弁当でも満足できる。

とはいえ私は店に座るのが好きだ。植栽に柔らかく包まれたテラスを通って、中の小さなテーブルにつき、白墨による手書きの黒板メニューから目を上げる。天井のアジアンテイストの照明に目をやっているうち、いまここの場所の感覚が遠ざかる。鷹番でもどこでもない場所をしばしたゆたう。

そこにいるだけで多幸感に満たされる店がこれまでもいくつかあった。ブダペストの野外食堂の大樹下のテーブル、新聞を手にしたご老人たちに混じって取る京都イノダコーヒーの朝食、地元の方々がひしめき合う兵庫県明石の立ち飲み屋では、紛れ込んだ余所者の私たちを誰もが包み込むようにして場所をつくってくれた。名物のタコの味は忘れてしまったが人々の表情は今も鮮明だ。どの空間にも店とお客がつくりあげている親和性があり、ともすれば常連が醸してしまう排他性とは遠く離れている。そんな場所のひとつが自宅から三八八歩にある贅沢。

これから更に二十年後のお二人を想像してみる。その頃私たちはこの世のものではないけれど、彼我で乾杯はできるだろう。

目黒区鷹番2-5-12 木曜日定休 ランチ・12:00~15:00/ディナー・18:00~21:00
世田谷区下馬6-25-3 無休 11:30~17:00(テイクアウトのみ)

「きんりん」Vol.20 2023年6月15日 発行
制作   :エクリ
ロゴ   :伊藤弘二
写真   :大野貴之
レイアウト:須山悠里
文責   :須山実・須山佐喜世

この記事を書いた人:ecrit
エクリは、東京の編集出版事務所です。 平凡社コロナ・ブックスをはじめ、専門性の高いビジュアル・ブックから、展覧会図録まで幅広い編集と、年に一冊のペースで、詩画集を始めとするアートブックを刊行しています。 また、事務所内に併設された「木林文庫」では、古今東西の「木」にまつわる本が集められています。予約制の図書室として一般公開しています。