いい古書店があることをいい街の条件として挙げた長田弘はまた、一杯のコーヒーを黙って飲むための場所を愛した。
「好きなコーヒー屋の好きな椅子に座って、すこしずつ読む………マルクス・アウレーリウスを読みたいときは、濃く淹れたブラック・コーヒーにかぎる」
私はまだマルクス・アウレーリウスをきっちり読んだことがないのだけれど、学芸大学駅西口の喫茶店、「り・どぅ・あんぐいゆ」の窓辺の席やカウンターの椅子に長田弘さんが一人で座って本を読む姿は、はっきり目に浮かぶ。
カフェではなく、コーヒー屋と呼ぶのがしっくりくる場所は学芸大学駅にもいくつかある。西口には「あんぐいゆ」の他に「平均律」、東口には高架下に「バン」、高架沿いに「雑伽屋」そして商店街に「珈琲美学」。店開きが一九七九年の「あんぐいゆ」は二〇一八年の今年、三十九年目を迎えている。
“コーヒー屋”から足が遠のく
私たちはつい最近まで地元のコーヒー屋にはほとんど入らなかった。コーヒーは好きだが家飲みが主で、独立して事務所を構えてからも、仕事の打ち合わせは事務所に来てもらうのが常だった。
義父母が、現在私たちが自宅事務所として住まうマンションに移ってきて数年経ったころ、足腰が弱って出不精気味になった義父を連れ出すため、週に何回かコーヒー屋に誘った。主に通ったのは、現在はなくなってしまった東口商店街の「学芸茶房」だった。階段の上り下りがある場所は敬遠したのだが、義父は洒脱な人だったから、ステップを上がれたら、「あんぐいゆ」のカウンターに座って、店主木村直嗣・良江夫妻とのやり取りをたっぷり楽しめたと思う。
その後、義父母と碑文谷の家に同居するようになって、多少家を空けても心配のないときは、家人と気分転換にと駅前のドトールやスターバックスといったカフェに入り、20分ほど取りとめもない時間を過ごすこともあった。コーヒーを飲みにいったわけではない。
家人と私のそれぞれの両親を見送り、三人の子どもたちも別居した今、私たちは街のコーヒー屋に足を運ぶようになっている。最近、東横線高架下には天井が高いファクトリー風のニュースタイル・カフェができ、前述したコーヒー屋もあるなか、私たちが必ず「あんぐいゆ」に向かう理由はどこにあるのだろう。
店名”あんぐいゆ”の由来は…
「あんぐいゆ」が入っている細長のビルが建つ以前、そこは木造二階建ての店舗付住宅で一階は眼鏡と時計を扱う店だった。四十年ほど前、鉄筋のビルに建て替える際、オーナー夫人は一階ではそのまま自家の商売を続け、上の階では喫茶店を開くと心決めしていたという。自ら切り盛りするのではなく、喫茶店をもちたかったのだ。店を任せられる人はいないかと相談を持ちかけたのが建築家でビルの設計を頼んでいる多和田氏である。
そのとき多和田氏の打診したのが原宿の「マルジュル・ド・ピュイ」(井戸の縁石の意)という喫茶店に勤務していた木村直嗣さんであった。木村さんの以前の勤務先は六本木駅近くの「カファ・ブンナ」(エチオピアの言葉でカファは豆、ブンナはコーヒー発祥の地)だったが、設計事務所が六本木にある多和田氏が昼食後必ずコーヒーを飲みにきていた店である。
親しい間柄だった氏に、新店舗の打診をされた木村さんは、カファ・ブンナの後輩を推薦したが「僕はコーヒー屋をはじめるつもりはありません」と断られてしまった。アルバイトではなくコーヒー屋の社員となっている人は、木村さんもそうであったように、将来自分の店をもつための修行と捉えているケースが多かったのだが、後輩は違ったのだ。そこで、場所だけでも見てみましょうと、自分が出向くことになった。木村さんの方はコーヒー屋一直線で、学生アルバイトをしていた二十歳前後から、いずれ店を開くことを目指していた。
まだ鉄骨の躯体が立ち上がっていただけだったが、仮足場から店が予定されている場所を見渡して、木村さんは、この広さがあればと心動いた。仮押さえの即答をしたのは、フロアーの様子、働き手の人数までが一気に思い浮かんだからだ。
日をおかず、同じ学芸大学駅の喫茶店で多和田氏から図面を見せられて声を呑んだ。立ち上がるビルは二棟なのだった。狭小の地に時を空けて個別に建築することの難点を考慮し、隣り合う地主が協議しての同時建設になったという。店舗の広さは、先日一見したときの半分である。空中楼閣のごとき夢は思い込んだ自分の不注意で、それを理由に断りきれなかった。
「うなぎの寝床だな」
木村さんが設計図面を見せられたたときの印象が店名となった。
“怖そう”な喫茶店
四年近くで数軒を渡り歩いての喫茶店修行のなかで、木村さんが目指す店の絵図はほぼ出来上がっていた。豆はコクテル堂のオールドコーヒー(木村さんは今風にエイジング・コーヒーとは言わない)をネル・ドリップ式で淹れる。淹れ方によって器は自ずと決まってくる。イタリア製のジノリがネル・ドリップのサイズ感に合っているのだという。ショップカードとメニューに使われているロゴは友人の伝手を通して提供されたものだ。フランスでうなぎ採りに用いる道具が元になっている。
「うなぎの寝床」の名の通り、「あんぐいゆ」の細長い店内は微かにカーブしており、頭にあたる窓辺の席と尾の部分になるカウンター席では明るさが全然ちがうのだ。扉を入って、レジを軸に左側と右奥で雰囲気が異なるところは店の魅力、特徴のひとつだと思える。それはたぶん、光量のためばかりではない。
店内は狭さにもかかわらず窮屈さを感じない。お客さんたちの話し方、そして内部の構造の両方によるのだろうが、現在の「あんぐいゆ」では、いつどこに座っても人声が気にならないので、一人あるいは二人に籠る時間を保証してくれる。
カウンター内もまた極細のうなぎの寝床で、背後を通り抜ける幅はない。良江さんが少し顔を寄せ、小声で注文を伝える。直嗣さんが棚からカップを選び、湯せんし、コーヒーを注ぐ。良江さんが下げたコップとカップを洗い手早く拭き取る。五mのライン上で演じられるパ・ド・ドゥに見とれながら、ついお二人のなれ初めを訊いてしまう。
やはりそうであった。初めはカウンターの内と外だったのだ。
三十年ほど前、良江さんは妹と碑文谷に住んでいた。二人ともコーヒーはもちろんのこと、喫茶店とその空間が好きで、学芸大学駅周辺の喫茶店を一軒一軒試していたが、気づいていながら入店をためらっていたのは「あんぐいゆ」だった。気後れを振り切って扉を開けたとき、「怖そうだな」と感じていたことがすぐに起こった。常連然としたカウンター席の数人がいっせいに振り向いたのだ。身を縮めたあの日の記憶があるので、扉が開いたときには、まず自分が目を合わせるように努めていると良江さんは言う。
とはいえ、仄暗い階段を上がり続けるようになったのである。そして仲人は、直嗣さんが最後に勤めたマルジュル・ド・ピュイの店主に引き受けてもらった。
ここではない、どこか
「あんぐいゆ」は内装調度もコーヒーの淹れ方も開店当時と変わりはないそうだが、一九八〇年代後半からのひと時、客の回転は今の倍以上あって社員も数人雇っていた。バブル期というのは、周縁ともいえる業種にも波立ちが及び、コーヒー屋も朝から慌ただしかった。客の一部はバブルの担い手そのもので、不動産業者たちが鼻息荒くミーティングを繰り返していたそうだ。
店が繁盛していることはもちろん有り難いことだったが、望んでいた姿に、いつまでたっても重なってこないという焦燥が生まれていた。商いはやはり数だけではなかろう。活気と喧騒は別物である。日に日を継いでいるうち二十年が経っていた。
駅改札に直結と云えるくらいの立地は、飲食店にとってまたとない好条件のはずだが、木村さんが将来はじめる店として思い描いていた場所は、住宅街の一角か大学のキャンパス近くだった。学芸大学駅とはまさに名のみで、大学はないのだ。土台を据え直して、一度飛び立ってもよいのではないか、夫婦で行く末に想いを巡らせているうち、時は今とも感じられた。
「ここではない、どこか」。木村夫妻が探した店舗の候補地は東京都内ではなかった。良江さんの希望は仙台だったという。街中に東北大学のキャンパスを擁する仙台市であれば、教師学生が軸となって、落ち着いた空間に染め上げていけるように思えたのだ。街の佇まいが気に入っていた館林市なども含めて、いくつかの街の店舗を見て回ったが、いずれも「次はここで」と踏み出させる決め手に欠けていた。見方を変えれば、決め手となるのは次なる場所そのものだけではなく、自分たちの意志の在処でもあった。
新天地を探索中、良江さんはお母様に相談したことがあった。「直嗣さんは東京っ子だからね。やはり生まれた場所が合っていると思う。二十年続けてきたのだし」
同じ場所を選び直し、再び二十年が経とうとしている。
うなぎの寝床「り どぅ あんぐいゆ」
いいコーヒー屋とは、店主と集う人々、そして時間との大いなる共同作業の結果であろう。「うなぎの寝床」の居心地のよさは、この人と時の果実なのだ。目には見えない果実なのだ。
開店の年から今に至るまで、この果実を味わっているMさんに話を伺った。初日は中学生のときだったという。オーダーはグラッセ(アイス・コーヒー)で、冬場であろうと変わらない。どこよりも美味しいのだと言われてみれば、季節にかかわりなくグラッセを注文している人は少なくない。
良江さん姉妹がカウンター席からの目に気おされてしまったのと異なり、Mさんはカウンターの連中が面白そうだと、自分の飲み物を持って窓際から席を移した。T大三羽烏と称されていたノートと首っ引きの大学生の中に割り込んで猫のように邪魔しにかかった。まるでドラマの冒頭である。
かつての我が身を重ねてか、その後も登校途中で引き返しては入店する「ワルい少女」を木村さんは黙って受け入れた。爾来、親兄弟友人によりも自分を語り、多くを語らない木村さんの寸言を聴いてきた。
後に来店するようになったMさんの父は、ネルドリップの手元に魅せられ、「あんぐいゆ」の豆を購入して自分で淹れるようになった。ランドセルでやってきて水だけを飲んでいたこともある息子さんは、時おり勤め帰りに顔を出す。「母にこの場所があってよかった」と言う。
書き忘れてはいけない。Mさんがプロポーズを受け入れたのは窓際の席だった。
いいコーヒー屋、あるいは窓辺の席で
「あんぐいゆ」のブレンドコーヒーは二種類で、「五番町」はコロンビア豆が五割、少し苦みをきかせた「楡」はブラジル豆が五割だという。供されるジノリの器は日によって変わる。普段私たちは、それぞれマイルドと深煎りのブレンドコーヒーにケーキを一つだけ注文し割って食べる。定番のチーズケーキは夫妻のどちらかが毎日焼く。一度、クロックムッシューを取ったとき、「この味」と思わず声が出てしまった。クロックムッシューを焼くのは、黒々と使い込まれたBawLooというメーカーのホットサンド焼き器である。三代目だという。蓋を開き、焼き具合を確かめながら何度も天地返しをする。この繰り返しこそが、パンの食感と焼き色に生きるのだろう。そのため、取っ手の堅牢さが肝心で、国産のものは脆いのだそうだ。フランスで食べたクロックムッシューを格別旨いものだとは思わなかったけれど、木村さんの手になるそれを食べるときの自分はきっとニコニコと満足げな表情をしているのだろう。
二年少し住んだパリのカフェは、私にとって街と人を眺めるための椅子を借りる場所だった。カフェのエスプレッソの味はどこで飲んでも同じようなものだったけれど、街行く人を見ていて飽きることがなかった。私はアングイユの窓辺の席が好きだ。眼前の建物や看板の無秩序ぶりはさておき、人の動きはこの駅前でも見飽きない。木村さんもお客が途絶えたひと時、窓辺の席でくつろぎの時間を過ごすという。
くつろぎの時間の持ち方、気分転換の法は、音楽、散歩、お酒など、私たちにも様々ある。この街のコーヒー屋で、必ず「あんぐいゆ」に向かう理由は、他にはない、別の場所では体感しえない「時のふくらみ」「余白」があるからだと思う。隠れ処ではない。余白は場所ではないからだ。街の中に、いつでも身を置ける余白があることを静かに感謝しよう。
今日もまた、いいコーヒー屋で古の箴言をブラックで味わう。
「未熟な葡萄、熟した葡萄、干し葡萄――すべて変化である。それは存在しなくなるためではなく、現存しないものへの変化である」(マルクス・アウレーリウス『自省録』・神谷美恵子訳)