原語も訳語も好きな言葉がいくつかある。Ash Wednesday(灰の水曜日)がその一つだ。
三月になるとエリオットの“Ash Wednesday”の詩文を呟きたくなる。“Because I do not hope to turn again Because I do not hope”(わたしは ふたたび振り返ることを 願わないので/願わないので)。とりわけ、この二〇二一年の三月はそうだった。ひたすら近隣を歩くばかりの日が一年近く続いているのだ。願わないので、願わないので、と繰り返していた。
「あるこうあるこう/わたしはげんき/あるくのだいすき/どんどんいこう」
近隣の巡行だけでは飽きてきて、途中でおやつにカスタードシュークリームかどら焼きのどちらかを買い公園で食べたり、持ち帰ってのお茶の伴となった。お気楽なことではあるけれど、やがて休憩場所と給甘スポットを結ぶ地図ができあがった。近隣徒歩圏には洋菓子店、和菓子屋がおあつらえ向きに点在している。たわいのない決め事を半真面目に繰り返して、願わない繰り返しを反故にするのだ。
私の生家は東横線の線路から二十メートルほどしか離れていない。碑文谷公園に並行する百メートル程の間、道が窄まって住宅がせり出している場所がある。この通り沿いに小さな和菓子屋があって、家では「あんこやさん」と呼んでいた。季節ごとの草餅、桜餅、柏餅、おはぎ等を「あんこやさんに行ってきて」と買いに行かされた。通年では大福と薄皮饅頭だった。小学生の頃、餡子類は特に待ち遠しいものではなかった。あるきっかけでアンドーナツが好きになり、今に至るまで好物だけれど、餡子そのものではなく、揚げパンに入っている餡が良いのだ。私にとって、すべての餡入り和菓子は「外皮」あってこそのものである。羊羹の竿ごと一本食べたいという甘党がいるけれど、外皮のない小豆の塊を自ら買うことはなかった。「余はすべての菓子のうちでもっとも羊羹が好きだ」と書いたのは漱石だが、食べたいわけではなく、見かけが好きということらしい。
どら焼きを買って食べるようになったのは、それほど以前からではない。きっかけは花見だ。
私たちの花見歴はけっこう長い。友人たちを誘って碑文谷公園で宴を開き始めた頃は、シートを広げるグループはもう一組出るか出ないかだった。上野公園や代々木公園などはともかく、目黒や世田谷辺りの都周縁の公園での花見の集いはほとんど見かけなかったのだ。ソメイヨシノを楽しめる場所は都内に多いから、「穴場」は点在している。いつの頃からか、穴場は次々と埋められ、周縁地帯の花見グループは激増してきた。まさに「花見んと群れつつ人のくるのみぞ」。もちろん、我もその人、君もその人である。
私たちのメンバーは集まり散じて同じからずだけれど、二十年来のコアなメンバーもいて、バギーで連れられていたお子さんたちが、今やそれぞれ仕事を持っている。
夜桜の宴は冷えるので、いつもそこそこに引き上げ我が家で二次会をする。指呼の間の公園ゆえ、撤収も楽だったのだ。いつも部屋には桜の枝を一本活けておく。雨の日は初めから、この一枝を愛でつつとなる。一番の酒呑みの友人が、ある年、何故かいつもの一升瓶だけではなく箱詰めのどら焼きを買ってきた。桜餅ではない。子供たちにということだったのだろう。しかし当夜手にされたのは三、四個で、かなりの量が残されてしまったので、数日続けてせっせと食べた。多分、名のある店のものだったのだろう、腹もたれすることもなく完食した。これでいきなり、どら焼きの大ファンになったわけではないものの、美味い餡子ものの一つとなった。
数年前、木林文庫を見学にいらした高等学校の先生が、古典の授業で和歌をモチーフに和菓子の意匠を考えるという課題を通して知り合ったお店のどら焼きを持ってきてくださった。どら焼きはコーヒーのお茶請けに最適だったし、花見後の味わいも思い出された。その和菓子店「さか昭」はかつての目黒区役所に近い中央中通り商店街沿いにある。この通りには、あまり来たことがなかった。商店街に近い、義父母が好きだった豆腐店か、遠方の友人が気に入りの狭い呑み屋に行く時くらいで、いずれも一店との折り返し、周りは目に入らなかったのだ。この視野の無さのせいで、見逃してきたことはさぞ多かろうな。どら焼きにはじまって、「さか昭」では、いちご大福や柏餅、水ようかん等、季節の彩りを楽しんでいる。
都内随一と謳われる大正二年創業の上野広小路の「うさぎや」のどら焼きを食べたことがある。池波正太郎のエッセイ『散歩のとき何か食べたくなって』のビジュアル本制作に編集者として関わった際のことで、奥付が一九九六年だから、花見を始めて十年くらい経った頃だったろう。天ぷらや鮨、洋食店に混じって甘味の店も何か所かあった。「うさぎや」もその一か所で、取材後事務所で撮影するためと自宅用にどら焼きを買い足したのだ。出版社専属のカメラマンによる写真の上りは実に見事で、風味が匂い立つようだったけれど、自分で書いたキャプションの味気無さには今さらながら恥じ入るばかりである。陳腐に堕さず蘊蓄に走らず、味覚の言葉は難しい。池波の食エッセイが魅力的なのは、気負い衒いが一切ない普段着のエピキュリアンだからだ。「散歩のとき何か食べたくなって」はまさに今号の裏タイトルである。
幼児が初めてのスイーツに驚喜し全身で興奮する様子は、しばしばSNSで流れてくるし、どれも微笑ましい。孫娘のソフトクリームを口にしたときの椅子で跳ね上がるようなシーンが次男夫婦から送られてきたこともある。その娘が、私たちの前でシュークリームのカスタードを一匙舐めた時の表情が忘れがたい。声はなく、不思議に触れたような眼差しでこちらを見上げる目は歓び驚きとは異なる、天使的としか名づけようのない輝きが揺曳していた。おそらく数秒のことだったろう。多分そのあとは、いつものように「もっともっと」と大はしゃぎになったはずだが、その後の記憶がない。絵画や写真にはそのような永遠の一瞬というべき表情があって、脳裏に棲んだそれらの像が前触れも無しに蘇り、こちらの息を止めさせるときがあるものだ。日常では、自分の存在を全否定させるような冷えた目を投げられた負の映像のフラッシュバックだってある。天使もそして悪魔も薄い膜の小部屋で目を瞑っている。『雨のち、シュークリーム』という青春小説の冒頭に「シュークリームは天使だ」と書かれていた。
天使でも悪魔でもなく、市井の貧乏神に憑りつかれた漱石門下の内田百閒は、借金取の追跡をドタバタとかわし続けたが、幼少時は恵まれた日々にあった。しかし彼がはじめてシュークリームを食べたという旧制第六高等学校在学時の明治四十(一九〇七)年頃には、裕福な造り酒屋だった生家が倒産し、暮らしは貧しかった。そんな中、百閒は自分を可愛がってくれていた祖母にねだって決して安くはない洋菓子を買いに行かせたのである。「祖母の手からシュークリームを貰って、そっと中の汁を啜った味は今でも忘れられない」と『御馳走帖』という随筆集に書かれている。後年のライフスタイルはもう出来あがっていたわけだ。
一九五二年創業の学芸大学の洋菓子店マッターホーンのケーキを口にできたのは、「お客様」のお相伴のときくらいだったろう。麺が乗っていると思っていたモンブラン、スポンジケーキにリキュールのしみ込んだサバラン、華やかなショートケーキ、どれもがハレの一皿だった。シュークリームは食べにくい菓子の代表で、お客さんに出してはいけないとして買われなかったように思う。初めて食べたのは、店内の喫茶室でだった。私はどんな表情をしていたのだろう。それ以降もマッターホーン以外のシュークリームを手にしたことは長らくなく、いわばカスタードの基準点である。
洋菓子手土産には必ず名の上がる巴里小川軒目黒店も自宅から遠からぬ目黒通り沿いにある。私たちもここでの買い物は知人宅を訪問する折に持っていくレーズンウィッチだった。散歩おやつが日常になってはじめて、この店のシュークリームを食べた。王道を行く風格、ボリュームがあってしつこさが無い。フランスのシュークリームを食べたことはないけれど、店名に巴里の字を載せているだけのことはあると意味もなく納得してしまう。
目黒区と品川区に挟まれた林試の森公園に行くときは、この小川軒か油面交差点にあるアントワーヌ・カレームでシュークリームを買う。店の名はパティシエの王と称された人である。アントワーヌ・カレームのものは、公園に行きつく前に食べてしまう。なにしろ、ここのシュークリーム(クリームデーニッシュ)は注文を受けてからパイ生地の下穴からカスタードクリームを注入するのだ。シュークリームの薄いパイ皮は時間がたつとしんなりとしてしまい、食感をなくしてしまうからである。だから客の方も店主の意を受けてパリッと頬張るのが礼に叶っていると思う。シュークリームの決め手もやはり外皮だ。散歩の途中となれば、シュークリームを美味しく食べるのは大口を開けて少々アクロバティックにかぶりつけばよく、口の端、鼻先にまぶし砂糖やカスタードが付いても構いはしない。
自粛以前からしょっちゅう行っている駒沢公園には深沢不動交差点近くのNAOKI深沢店でシュークリームを買う。二月頃、梅園の芝生に腰を下ろして淡い陽光を浴びて食べるのがベストタイムだ。抑えた甘みの小ぶりなサイズと匂いたつ梅花のコレスポンダンス。
すずめのお宿緑地公園周辺には不等辺三角形が結べる風に洋菓子屋さんが散らばっている。直近は碑さくら通りの斜め前の「パティスリー ジュンウジタ」、お宿の角が触れている碑文谷八幡の境内を背後から入り、参道を抜けた先の円融寺の山門手前に「スイーツさつき」、環七を渡り十三号で紹介したショーマッカーの向かいに米粉でパイ生地をつくるティーフル。すずめのお宿に入ると、夏でもすっと汗が引く。三か所のどこからも近いので、暑いさなかでも冷たいカスタードを味わえるのが良い。すずめ座の夏の小三角形と呼べそうだ。ティーフルの連星といえる間近に、この三ツ星とは輝きの異なる和菓子店「青柳」がある。地元で四十年続く店だ。「あんこ屋さんに行ってきて」と言われた人も界隈にいるだろう。中秋の頃には真昼の白い月を見上げてのどら焼き。
自由が丘駅南口から五分ほどの「粉と卵」と尾山台駅近くの「クレヨン」、カスタード派はここを目指す。自由が丘方面に行くのは比較的少ないけれど、両店の間に九品仏浄真寺が控えている。浄真寺は季節を問わず心静まる境内で、落ち葉の頃の風情は京都の古刹に劣らない。ここは和であろうと思えども、近くには惹かれる和菓子屋さんがない。そこで激しく反応するカスタード探知機に従い、浄真寺の裏手にある小さな猫額よりは少し広いねこじゃらし公園で口福の箱を開けることになる。浄真寺の最寄り駅、九品仏から五分程の環八通り沿いのD&DEPARTMENTのシュークリーム、ほんのりキャラメルが香るカスタードにも誘われるが、ここは金土日のみのオープンで、口にできる機会が少ない。
世田谷公園へは五本木スリールかレティシアのシュークリームを携えたいけれど、自宅からはスリールが手前にあるので、ここを素通りしてレティシアのものをという目論見が崩れることがある。レティシアのシュークリームは常備ではないのだ。そんなとき、代打といっては申し訳ないけれど、公園近くの「伊勢屋」のどら焼きにする。確実に送りバントを決めてくれる店なのだ。ここにはよく子供たちを連れてきて遊ばせたけれど、ゆっくりおやつをという場所でもないので、近くの遊歩道へ行くことが多い。
目黒区は坂が多い。目黒川から代官山へ向かう目切り坂と目黒駅近くの行人坂、そして山手通りから油面へ向かう馬喰坂は特に勾配がきつい。へたばった後のどら焼きの甘味は有難いものだ。目切り坂を上がる青葉台の西郷山公園へは目黒銀座商店街にある喜風堂のどら焼きだ。喜風堂のある通りの名は目黒銀座と云わずに、蛇崩の川と伊勢の森を由来とする蛇崩伊勢脇通が相応しいだろう。重厚な木彫りの屋号に目黒銀座ではいかにも気の毒である。
目黒通りと山手通りの交差点近くの玉川屋の黒糖どら焼きを買った日は、馬喰坂を黙々と上がり切った先にある油面公園にへたり込む。やはり馬喰坂は厳しい。たっぷり茶を飲み、息を整えたうえで甘味を味わう。
近隣散歩の甘味を家族と見立ててみれば、シュークリーム母はマッターホーンだが、どら焼きの父は行方知れずだ。というのも、花見にどら焼きを持ってきてくれた友人はある時から連絡が取れなくなってしまい、店名を確かめることが叶わないのである。彼は母親と二人暮らしだった。一人ずついた弟と妹と私たちは交流がなく、友人の電話は呼び出し音があるものの通じない。住所を頼りに府中の集合住宅を訪ねてみると、名札が残るポストにはチラシ類が溢れている。管理事務所で尋ねたが個人情報ということで辿りようがなく、足跡は失われ生死も不明のままである。からみ酒が常でひたすら他人をくさし続けた男は、唯一のお気に入りたる「酔いどれ船」に乗っていずこかへ漕ぎ出たのだ。
そしてどら焼き三兄弟とシュークリーム四姉妹。三兄弟は生年順にということで、大正十(一九二一)年創業の「喜風堂」、大正十二(一九二三)年の「玉川屋」、三男が平成元(一九八九)年の「さか昭」としよう。シュークリームの方はイメージで、長女が「巴里小川軒」、次女は深沢の「NAOKI」、三女が油面の「アントワーヌ・カレーム」、四番目の末っ子は自由が丘の「粉と卵」だ。姉妹たちに比べて兄弟には近隣の友人が少ないのが、私たちの心配の種である。
制作: エクリ
ロゴ: 伊藤弘二
写真: 大野貴之
挿画: 佐久間露涓
撮影協力: 下村真由美
レイアウト: 須山悠里
文責: 須山実