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きんりんバックナンバー

赤池円

学芸大学 きんりん vol.9

赤池円

「生きているうちに見つけてくれて、ありがとう」という文学賞受賞の際の作家コメントがあった。

森に関する情報を発信するサイト〈私の森.Jp〉の中の「あの人の“森”語り」で、私たちが開設している「木林文庫」を取り上げてもらったときには、同じように「見つけてくださって、ありがとう」と感謝の気持ちが溢れた。二〇一四年春のことである。

木林文庫の告知は口伝とホームページ頼りで、週末のみの予約制を原則としているので、扉はかなり重いのだった。店舗ではないから来訪者ゼロだとしても、あえなく撤退廃業というわけではない。とは言うものの、開くかどうか分からない扉を日がな見つめているような気分でもあり、活気メリハリが欲しくなっていた。

インタビュアーは、〈私の森.jp〉の編集長、赤池円さん。短い訪問時間だったにもかかわらず、赤池さんはツボを押さえつつ私の言葉を引き出してくれた。そして掲載された記事は、面映ゆいの一言である。木林文庫が十五回目となるこの“森”語りのシリーズに先行して登場していたのは、森林を生業とされている方や研究者、エッセイストと多彩で、木の名前もろくに知らず、「初心者のための森歩き講座」などに参加している私たちはいささか変り種だったように思う。

赤池さんは、私たちが上梓した六世紀のウェールズ・ケルトの叙事詩に書による「木」の文字を配した『木の戦い』を読んでくださっており、エクリのホームページを辿って木林文庫の軋む扉を開いたのだ。文庫の扉を開いてくれただけではない。その後、彼女の木との関わり方を見聞させてもらい、「私の森」に集う方々に引き合わせてくださることになる。そして、その誰にも共通しているのは皆、ラディカルな楽天家だということだ。

赤池円

〈私の森.Jp〉のウェブサイトは二〇〇八年の立ち上げだから一昨年で十年。発信開始から三年間はスポンサーのバックアップがあったが、以降はボランティア活動として、森と人と暮らしをつなげるために「人と人」「人と情報」の接点づくりを推し進めているという。パンフレットには「今日、森のことを考えましたか?」とある。私たちを立ち止まらせ自問に誘うこの開かれた言葉は、〈私の森.Jp〉の編集委員でコピーライターの大和田瑞穂さんによるものだ。

考えること、知ることこそが、すべての課題へのシンプルなにじり口である。「私の」は単なる所有ではもちろんなく、自分事に引き寄せるという意味だ。「森を持つ」「森を考える」「森を想う」を契機とした自由な個の集まりであり、共につくる「場づくり」なのだ。右手で木を伐り、左手で植樹せねばならない現代の私たちは、さまざまな工夫を凝らして共同で第三の触手を模索する必要があるだろう。

みんなの夏至祭

二〇一六年の夏、「みんなの夏至祭」にと、赤池さんから目黒区東山の事務所にお誘いを受けた。夏至祭はヨーロッパを中心に夏至の頃、聖ヨハネ祭とともに祝われており、木柱に花や葉を飾って広場に立て、その周りを夜明かしで踊ったりするそうだが、赤池さんの企てた夏至祭は室内に森をつくるというものだった。部屋のあちこちに青葉のついた小枝が飾られ、張り渡されたワイヤからも吊り下がっている。都市に於いての、頂きにある太陽への讃歌は各地の森から届く木々の枝葉によってなされるのだ。

この夏至祭は翌二〇一七年から「5×緑(ゴバイミドリ)」の事務所がある新宿区の合羽坂テラスでスケールアップして開かれるようになる。「5×緑」の宮田生美さんの仕事は、在来植物で都市部に緑の景観をつくり出すことを目指していて、普通の集合住宅の三倍はあろうかと思われる広いベランダには多様な草木がみっしりと配されている。

岐阜県の下呂の森の杉、馬頭の森のテイカカズラなど、たっぷり運び込まれた緑を、室内でダイナミックに飾りつけするのは富山を拠点に活動する花人の藤木卓さんだ。天井から床まで、香りを放つ緑が流れをつくり縦横に湧き出してベランダの植栽と呼び合い、新たな緑空間が出現する。フェイスブックに上がる藤木さんの仕事群を見ていると、いつも植物が楽しげに踊り、屹立した一本が無限を感じさせたりする、みどりの指の持ち主だと、改めて思う。初年に赤池さんが、祭の種子が全国に散って欲しいと話されたが、昨二〇一九年、藤木さんが夏至の同日、金沢の夏至祭を手がけ、その様子の映像が新宿の会場で流されていた。都内での飾り付けは、那須でJARDIN BLANCを主宰するクリエーターの吉尾吉里さんの指に引き継がれた。

みんなの夏至祭

午後の早い時間から有志が飾り付けと料理を手分けする。朴葉の夏至寿しをはじめ、宴に供される多彩な料理が気取らずに盛り付けられる。飲み物は一旦、くるみ貨に両替してから支払う趣向だ。「くるみ貨」は森羅への通行手形、森のけものたちとの友情の印であり、樹林の鳥たちへの挨拶であり、そしてなによりも言葉であろう。理想的な仕事のあり方を「贈りものを交換するような」と考える赤池さんならではのアイデアだ。

小学校時代からの友人だという男性が夏至祭にいらしていて、「赤池さんは昔から遊びのルールなんかもつくって、皆がそれに従っていたなぁ」と述懐した。赤池さんは“follow me”とは決して言わないだろうけれど、おのずから誰もがついていく。先導せずに伴走するのだ。

彼女は交流のある人たちを眺め渡し、引き合わせる。惹きあうことになるだろう人と人を引き合わせるのである。四年続いているこの集まりのなかで、私たちは赤池さんのオーガナイザー、そしてコンダクターとしての歯切れよくにこやかな姿を目の当たりにした。サロンの女主人と現場監督との絶妙なカクテルといえよう。

自分の性向に、「俯瞰癖」という言葉を赤池さんは使った。俯瞰癖といえば、愛猫「タビヲ」君である。事務所のドアをあけるとすぐに鼻を寄せて挨拶にやってきて数秒のタッチで離れてゆく黒白の猫君。人は好きだけれど踏みこまないよ、とばかり精妙なスタンスを保ち続ける。そして集まりの様子をキャットタワーの上から、あるいは下のフロアーと上のワークスペースをつなぐ螺旋階段の上から眺め降ろしている。いつの間にか、参加者が坐る部屋の壁に沿ってゆっくりと歩いていたりもする。ペットは飼主に似ると云われるが、飼主が猫に憧れることもありそうだ。赤池さんはタビヲの節度が好きなのだろう。人と人の付き合いのはじまりを決めるのは触覚だという意味のことを鶴見俊輔が言っているけれど、そのことが両者に共通している。

木林文庫

木林文庫は二〇一七年の夏至祭から樹にまつわる書籍のコーナーをつくらせてもらっているが、二〇一九年の選書はタビヲ君に敬意を表して「樹上の猫」をお題とした。そして、『不思議の国のアリス』から樹上で笑うチェシャ猫の段を高階經啓さんが朗読。高階さんの顔は、この夜、すっかり猫であった。この方は「書く、読む、話す」を「呑む、打つ、買う」の如く豪放に道楽として乱費するという破格の才人なのだ。

一年半前くらいから赤池さんのフェイスブックのアイコンが変わり、遠野の馬と一緒にいる写真になった。小学生の頃、父親から行きたい場所を訊かれると必ず「鍾乳洞か馬のいる処」と答えた少女は、望みそのままに馬の郷に至っているわけだ。柳田国男の『遠野物語』の郷、岩手県遠野一帯は「ひとつやに」という形で馬との関わりが常に濃密だった。

「ここが私の仕事の集大成」と思える場所へ彼女を導いたのは“super better”という言葉である。

赤池さんは日本での大学卒業後、短い勤めを経てからオレゴン州の大学で24歳から28歳までを過ごした。専攻は美術とビジネスのキューレーション。帰国してからベンチャー企業で七年勤務した後、同僚だった小森洋昌さんとグラム・デザインを起こし、ウエッブ制作とコミュニケーション・デザインをメインストリームに根茎を伸ばしてきた。今に至る豊かな関係は飛び石のように、そしてクライミングの突起のように現われることになった。

“super better”は、この留学時代に知り合った友人の口癖だったという。その響きがチャーミングなこと、そして仲のよかった友人の思い出をこめて、いつの日かやりたいことができたら使おうと、赤池さんは“super better.com”をドメイン登録する。その友人とは音信が途絶えてしまったけれど、あるとき米国の企業からドメインを譲って欲しいと問い合わせがあった。理由を説明し断ったが、先方は折れず懇願のやり取りが続く。会社概要を調べてみると、ゲーム理論を応用して社会的な課題の解決を探るソーシャル・ベンチャーで、人を元気にする種が埋まっていると感じられた。ドメインを渡したのは、二〇一一年の秋だった。振りこまれた購入代金のすべては、東北を“super better”にしてくれそうな四つの団体、「つながりぬくもりプロジェクト」「LIFE311」「森は海の恋人」「ユナイテッドアース」に寄付したという。売る気持ちの対価に相応しい行く先だと思えたからだ。

つながりができた陸前高田周辺を巡っているなかで、あるとき遠野方面に足をのばした。

「ここはいいな」。山並みのやわらかさに「終の」という言葉も浮かぶ。なによりも自然と人間を繋ぐ象徴ともいえる馬が身近にいるのだ。

「呼ばれた」と思われたとき、それはいつも偶発事ではないのである。遠野駅舎の保存運動や、あたらしい樹木葬のための事業活動、里山農牧場クイーンズメドウ・カントリーハウスへのプライベート・ツアー。火が灯るとすぐに磁場が生まれ、人とことが引き寄せられてくるのは、環境ジャーナリスト・枝廣淳子さんからの呼びかけに応じて一気に森との関わりが深まったときと同じだった。

馬

私たちが初めての乗馬で遠乗りをしたのは二十代半ば過ぎだった。メキシコの高地、チャパス州でのことだ。大人しくて賢いのを預けるから手綱を握っているだけでよいと云われ、引き手もつかなかった。谷あいの道はゆったりと濁足だったけれど、開けた草地に出た途端、先頭の馬が速駆けになり、一緒だった十数頭がいっせいに後を追った。家人も私も振り落とされなかったのだから大した速さではなかったのかもしれないが、それでも先頭付近の一人が横飛びに落馬し首を捻挫してしまったのだ。体感は疾走であった。緑が走るという稀有な経験は数十年経っても忘れがたく甦り、いま一度、馬の近くに行きたいと思い続けていた。そして『遠野物語』のエピソードから本をつくっていながら、私たちは遠野へ行ったことがなかったので、昨年、赤池さんが運営に関る遠野のクイーンズメドウへの宿泊ツアーの誘いに喜んで応じたのだ。

私たちが遠野で接したのは人と馬である。彼女がツァーに呼びかけたのは、やはりここで引き合わせたいと考えていた人たちだったのだ。大きな窓の向こうに広がる草木の中から、雨をついて馬が姿を見せるのを目にしながら、タルコフスキーの映像について語り合った時間。このまたとない一場を共にしたのは、建築家にして、いつもスパイスを携えて移動するカレー家の古川泰司さんだった。その後程なく、木林文庫でツアー仲間と氏の手づくりを堪能することになった。「ノスタルジア」と名づけられたカレーである。

加えて、当地の森で馬との暮らしを実践・研究している徳吉英一郎さんは、かつて我らが地元の学芸大学付属高校に通学されていたという、近隣繋がりでもあった。

赤池円

赤池さんのフィールドは林業、木育、木造建築といった木に直接まつわることばかりではなく、景観や食、ゴスペルの歌い手と周縁から外縁まで留まるところを知らない。植樹に伐採、味噌、杉玉、リース、カレーと次々と自在な手つきで大小の円をつくっていき、それらは微かに触れ合い、また大きく重なりあって変容して膨らんでいく。「植物においては、想像するとは、想像するものになるということである」(『植物の生の哲学』)という一文は、そのまま赤池さんに当てはまりそうだ。

赤池さん主宰のグラム・デザインのgramはprogramやepigramのように名詞を連結させる語である。だから、名刺のグラムと記された前に小さな穴が抜いてあるのは意匠ではなく、何かが起こるためのブランクであり受け皿なのだという。この小さな穴を通った向こうに広がるワンダーランドを今も私たちは歩いているのだ。

赤池さんの事務所の辺りは以前から土地勘があった。以前と言っても一九七〇年代の大昔のことだ。漫画誌の「ガロ」を出していた(旧)青林堂から独立した方がつくったコミック専門の出版社、北冬書房の事務所兼店舗が行先だった。北冬書房が出し始めた「夜行」という漫画作品集を求めるためだ。大橋一丁目の国道二四六号線を激しく行き交う車からの風圧によって、ひしゃげてしまいそうな古びた建物は、無頼の空気が滲む「夜行」にふさわしかった。

自転車で碑文谷の自宅から五本木通りを抜けたあとの、蛇崩れの緑道に通じる坂道が好きだった。坂道を降りきる手前の道のど真ん中に大きなサイカチの木があって、川の流れを割る大石のように道を左右に分けていた。この豊かな緑の広がりを走り抜ける度に浸されたおおどかな気分は忘れがたい。この「きんりん」の執筆に促され、三十数年ぶりにサイカチに会いに行くことにした。今はもう操業のための自転車も手放してしまったから徒歩である。

大樹の姿はなかった。頼朝由来の葦毛塚と称される道を分ける島に細身の木が頼りなく立っているだけだった。驚き区役所で調べると、件のサイカチは二〇一四年に突然幹の途中から折れてしまったとのことだった。鎌倉鶴岡八幡宮の大銀杏が倒れたのが先立つ二〇一〇年、千年の大樹とはいえ、もちろん永遠ではない。今にして思えば、時たま挨拶をおくっていたこのサイカチは「私の木」だと云えるだろう。記憶の木々、書物に茂っていた森もまた、私の森なのだ。

「きんりん」Vol.9 2020年2月10日 発行

制作:エクリ
写真提供 :小森洋昌(グラム・デザイン
ロゴ:伊藤弘二
レイアウト:須山悠里
文責:須山実(エクリ)

この記事を書いた人:ecrit
エクリは、東京の編集出版事務所です。 平凡社コロナ・ブックスをはじめ、専門性の高いビジュアル・ブックから、展覧会図録まで幅広い編集と、年に一冊のペースで、詩画集を始めとするアートブックを刊行しています。 また、事務所内に併設された「木林文庫」では、古今東西の「木」にまつわる本が集められています。予約制の図書室として一般公開しています。